「恋は罪悪ですよ」の意味は?
夏目漱石のこころ 「恋は罪悪ですよ、そして神聖なものです」とはどんな意図が込められているのでしょうか?
「恋は罪悪ですよ。」というセリフの「恋」とは「全ての恋」を示しているのでしょうか?「お嬢さんの先生への恋」は何が罪悪?
「恋は罪悪ですよ」意味は?夏目漱石のこころの先生のセリフ
夏目漱石の小説「こころ」に登場する先生は、遺書を通じて「私」に普遍的な教訓を伝えたいと思っていました。先生は恋愛について「恋は罪悪ですよ、そして神聖なものです」と述べていますが、これには重要な意図が込められています。
先生は、「恋」という感情を通じて人間の利己主義と切り離せないものであるということを示しています。恋愛は他者を想うと同時に、自分自身の欲望や感情を満たすことでもあります。日本の近代化が進む中で、個人主義が重視される一方で、その過程で利己主義に陥ることが問題視されていました。漱石は、この個人主義と利己主義のジレンマを恋愛を通して描いたのです。
また、「恋」の概念は、明治時代の日本においては現代のような自由な恋愛とは異なり、「家」の理に基づいた結婚が主流でした。そのため、恋愛は社会的な規範から外れたものであり、他者との利害が衝突することから「罪悪」とされていたのです。
しかし、漱石は先生とお嬢さんの結婚を通じて、個人主義を志向しつつも利己主義に陥らないことの難しさを描いています。先生の遺書には、「私の個人主義」というテーマが示され、日本人が個人道徳を持つことの重要性が訴えられています。漱石は、日本人が近代化と共に個人主義を身につける必要性を認識しつつも、共同体主義的な価値観も大切にすべきだと考えていたのです。
こうしたテーマを通して、漱石は現代の日本にも通じる警句を投げかけています。国際化が進む現代では、日本人が個人の信念に従って生きる必要が増しています。一方で、共同体主義的な価値観も重要であり、難しいジレンマに直面しています。
■ポイント
恋愛は人間の利己主義と切り離せないものである。
恋愛は他者を想う一方で、自分自身の欲望や感情を満たすことでもある。
明治時代の日本では、「恋」は「家」の理に基づいた結婚から外れたものとして罪悪視されていた。
日本人の個人主義を志向しつつも、利己主義に陥らないことの難しさが描かれている。
漱石は日本人に個人道徳を持つことの重要性を訴えている。
「恋」の過程での苦悩やジレンマを通じて、現代の日本にも通じる警句を投げかけている。
まとめ:「恋は罪悪ですよ」意味は?夏目漱石のこころの先生のセリフ
人は恋をすると、相手を占有したくなります。他の人がその相手と仲良くなると不安になり、それが嵩じると、どんな手を使ってでも阻止して、自分の物にしようとまで思い込むようになります。とんだエゴイズムなわけですが、もし恋をすることさえ無かったら、そんな思いは浮かばなかったでしょう。それが、恋は罪悪を生み出すということの意味です。
ただし、同時に先生が、恋は神聖なものと言っていることにも注意したいです。恋をすることによって、人は他のことでは味わえない崇高な感情を持つことができるのです。それが人を精神的な高みに引き上げます。だから恋は神聖なものなのです。
先生は、恋の二面性つまり、神聖であると同時に罪悪でもあるということを伝えたかったのだと思います。
「恋は盲目」という言葉は「恋は理性を失わせる。それによって物事の判断がつかなくなる」という意味ですが、「恋は罪悪」というのはもっともっと強い意味が込められています。
「恋は罪悪」というのは「恋をすると人は自己中心的で狡猾になり、ときに取り返しが付かない恐ろしいこと事を引き起こす」という意味です。
この言葉に込められているのは、「物事の判断が付かない」ことではなくて、「判断が付かなかった結果、取り返しが付かない事を引き起こす」ということです。
『先生』の「恋は罪悪ですよ、解っていますか」という言葉にそれがよく現れていると思います。