万里小路有功(までのこうじ・ありこと)がドラマ「大奥」に登場しますが、実在の人物なんでしょうか?
誰がモデルになっているんでしょうか?お万の方?
万里小路有功(大奥)は実在?モデルはお万の方?
「大奥」シリーズで万里小路有功は史実に基づいたキャラクター設定となっています。
家光に「お万」という呼び名を付けられているとおり、「お万の方」という江戸幕府3代将軍徳川家光の側室で後に「永光院」となります。
「大奥」に登場する万里小路有功は京都の公家に生まれで慶光院(けいこういん)寺院の門主
江戸に下って将軍に拝謁するとそのまま逗留させられ、還俗(げんぞく)し大奥の一員となります。
ちなみに、家光の側室第一号は「お振の方」です。
正室:鷹司孝子「御台所・孝子」
側室:
①自証院.「お振の方」(側室第一号)
②勘善院.「お楽の方」
③順性院.「お夏の方」
④永光院.「お万の方」(寵愛NO1)
⑤桂昌院.「お玉の方(お国の方)」(権勢NO1)
⑥定光院.「お里佐の方」
⑦芳心院.「お琴の方」
⑧「おまさの方」内容不明?
お万が寵愛を受けていたにもかかわらず、子ができなかったのは、お万が公家出身ゆえ、誰かの陰謀により子が出来ないようにされていたという説もあります。
ドラマ大奥で、お万の方様の子を死産としお玉が母となるわけですが実際には『お玉』という名前の側室が存在していました。 高貴な出身の家柄ではなかったので、周りの女中がうらやんで『玉の輿』という言葉の語源になってます。
■お万の方
公家六条有純の娘。はじめ伊勢宇治の内宮社層慶光院に入寺して住職となった。
寛永十六年、継目御礼のため参府した時に召し出され、還俗をめいじられた。後に、大上﨟となり、お梅の局と称したが懐胎は禁じられている。これは公卿の血を引くお万の方が子を生むと、幕府の公家対策として上で得策でないとの思惑だと思われる。
正徳元年(1711)、没。法名を永光院、小石川の無量院に葬られる。
*家光はお万の方への寵愛によって、弟の六条右衛門氏豊(忠豊)を召し出して千石を与え、高家役として従四位下に叙し、侍従に任じた。後には千石を加増して二千石を領有させた。その嫡子・氏興も父の家督を継いで綱吉の代に高家役をつとめ、戸田中務大輔となってつづいている。
ちなみに、家康の側室の於万の方は家康の次男結城秀康(越前松平家の祖)の生母です。
まとめ:万里小路有功(大奥)は実在?モデルはお万の方?
■万里小路有功(までのこうじ ありこと)
公家・万里小路家の三男。万里小路家が財政逼迫の折、出家し慶光院院主の位を与えられる。院主継目御礼の挨拶で江戸城を訪れたが、春日局の脅迫により還俗して大奥入りし御中﨟の一人となる。将軍である少女の家光に、戯れにお万(おまん)と名付けられるが、恋愛関係になってからは有功と呼ばれている。家光から賜った子猫に若紫(演:たま・こたま)と名付けて飼い、それをきっかけに家光が有功のもとを訪れるようになる。やがて家光と心を通わせて結ばれるが、二人の間に子ができないため春日局により寝所(しんじょ)から遠ざけられ嫉妬に苦しむこととなる。大奥内で次第にリーダーシップを発揮し、病に倒れた捨蔵や春日局を献身的に看護し信頼を得て、春日局の死後空席であった大奥総取締の座につき、お万の方と呼ばれることになる。次代の将軍選びに対して家光に意見を求められ、争いごとを避けるため長幼の序に従い千代姫を推し、家光もそれを採用する。家光の最期を看取り、死後は彼女の遺言に従って将軍家綱となった千代姫の後見として江戸城に留まる。
「大奥」で万里小路有功は家光に「お万」という呼び名を付けらますが、実際に家光の側室として存在した「永光院」という女性がモデルとなっています。
お万の方は京都の公家・六条有純(ろくじょう・ありずみ)の娘として生まれ慶光院の院主でしたが、1639年に家光を謁見した際に見初められ、還俗して「万」と名を改めて大奥へ入り、家光の側室となります。