中学三年生の国語の教科書で採用されている三崎亜記さんの「私」という物語について。
批評文を書く際、この物語の良い点と悪い点はなんでしょうか?
この物語は読者に何を伝えようとしているのでしょうか?読書感想文の例文は?
私(三崎亜記)感想文の例文は?
準備中
「私」の考えについて
〈前半部分〉
2つのデータのうち、1つが私のであると言う女性に対して、 『内容に変わりはないし、どちらも同じものであるが、相手がそれで満足してくれるのであればそれでいい。』というようにかかれています。
〈後半部分〉
2つのデータのうち、どちらもあなたのものであり、記憶がなかったとするならもう1人のあなたが借りたと言う司書に対して、 『データが二重になっていたのであろう。だから1つは私のでは無いから消して欲しい』というように書かれていました。
前半と後半で「私」の考えが矛盾しているようでもあり、また「私」は2つのデータについて、
・内容はどちらも同じだからどちらも私のである。
(前半部分)
・内容は同じだけれど1つは私のでは無い。
(後半部分)
としています。
若い女性は「経験していない人にはわからない」と言います。その言葉は、後で、自分が二重であることを体験する「私」への皮肉です。
ただ、若い女性は、二重のデータのうち片方をこれが本当で、もう一方を間違いだと言いますが、
市役所では住所も名前も内容が全く同じデータが2つなので区別が付かず、どちらを消しても実際に支障ないわけです。
しかし、片方が本物だと分かるという若い女性は、謎めいた不思議な人物です。
しかし、図書館のデータの件は、全く同じデータが二重にあるなら、自分が既に借りていること自体は事実となるはずですが、
「私」は借りた覚えはない。
つまり、「私」の名前で、違うデータが2つあるということです。
これを司書は、データではなく「私」が二重だと言うので、それもまたSFというか、世にも奇妙な物語風ですが、
この状態を解消しないと、今後ももう1人の「私」が本を借りてしまい、「私」が知らない本を借りたことになるでしょう。
市役所ではマニュアル通り仕事をしただけで、二重にデータがあった女性のことを深く考えていなかった「私」は、自分の存在がデータに依存していることに思い至ります。
私(三崎亜記)批評文の例文は?
批評文で大切なことは、単に「好き」「嫌い」のみでなく、
その「理由」や「根拠」を明確にすることが大切です。
教科書を見ながら組み替えてやっていくのがベストだと思いますが、例としてかいておきますね。
まず、序論→本論→結論で組み立てていけばよいと思います。
『序論』
昨今、この本にあるように~~~な事が話題となっている。
とか
近年、~~も対する関心が高まっている。
『本論』
自分が好き・嫌いなポイントを、具体例を上げて述べます。
『結論』
よって、本小説に対する私の見解は、~~の点で否定的である。
私(三崎亜記)あらすじ
引用:https://ameblo.jp/tmc-ikeda/entry-12608562307.html
〔1〕
市役所の庁舎の一室。「私」はこの庁舎に勤務する公務員。午後からの業務に備える「私」。処理すべき業務とその手順について確認する。
〔2〕
ある日、午後一番に若い女性が来庁する。女性の要件は、送られてきた督促状が自分宛ではないというもの。そこで「私」は、女性が持参した身分証と督促状を照合するが、そこに書かれた住所・名前は完全に一致していた。当惑する「私」。しかし、女性は「私」が当惑するなどとは考えもしない様子で、対応を待っている。
〔3〕
「私」は、なんらかの「対応」を行ったという「誠意」を見せることで女性を満足させられると判断し、情報処理科に確認をとる。調べてみると、この女性のデータには先週二重登録のミスが発見され、一方が消去されていた。「私」は女性に対し、単なる登録ミスで、データ内容に変化は無いと説明するが、女性は消去されたデータこそが、本当の自分のデータであると主張し、消去したデータを復元するよう要求する。
〔4〕
「私」は情報管理課の同僚に依頼して、消去したデータを復元してもらう。それから個別システムの住民データを更新して女性に示し、督促状を印刷しなおした。印字された文字は今までと一字一句変わらないものであったが、女性は心の底から安堵して立ち去った。
〔5〕
「私」は住民情報データと個人の密接な結びつきについて考える。私が「私」であるということを証明できるのは役所にデータがあるからこそで、もしそれら全てのデータがなくなってしまったら、「私」という存在そのものも消えてしまうのではないだろうか?
〔6〕
午後の業務を終えた「私」は、帰りに図書館に立ち寄る。本を五冊借り出す手続きをするが、司書の女性から、貸出制限の十冊を超えていると言われる。先週に三冊借りて、今回が五冊なので、まだ十冊に達していないはずだと「私」が伝えると、司書は二重になっているようだと答える。「私」は貸し出しデータが二重になっているものと考え、データの訂正を依頼するが、司書は「私」自身が二重になっていると言う。「私」は、個人情報データが二重になることがあるのなら、逆に「私」の存在そのものも二重になることがあるのだろうと納得する。
〔7〕
二重になったほうの「私」が借り出しているから、五冊は借り出せないと言う司書に対し、自分のあずかり知らぬかたちで貸出が行われたのだから納得できないと主張して、「私」は貸出を強要する。そこで、司書は担当部署に連絡し、二重状態を解消するための手続きをとる。
「私」は、どちら(の「私」)が消えようが、同じ「私」だから、何の問題もないと思う。
三崎亜記さんの「私」で最初に、来庁した若い女性に送られてきた督促状は督促状は二重登録された情報のうちの1つであり、どちらも1字1句変わらないものだという表記もありました。
それなのに、どこに違和感を覚えて自分宛のものではないと思ったのかというと、これは正直わかりません。本文でも一切触れられていません。
作者はこの物語を通して何を伝えたかったのかというと、人間とは、矛盾をはらんだ生き物でありどっちの考えなんて、単純には決まらないということじゃないでしょうか。