ミッシング(映画)考察|美羽は見つかった?最後の女の子は?

スポンサーリンク
当サイトはアフィリエイト広告を使用しています。
0未分類

映画「ミッシング」最後のシーンについて考察

「ミッシング」は少女の失踪事件をめぐって、あらゆる手を尽くして娘を探すも何の手がかりも得られず崩壊する母親と、世の中に溢れる欺瞞や好奇の目に晒されながらも奮闘する人々の姿に迫った物語

最後は通学路を通っていた1人の女の子が振り返りましたが果たしてあの子は美羽ちゃんなのでしょうか?

スポンサーリンク

ミッシング(映画)考察|美羽は見つかった?最後の女の子は?

映画「ミッシング」のラストシーンで通学路を歩く少女が振り返るシーンは、多くの観客に深い余韻を残しました。果たしてこの少女は失踪した娘・美羽なのでしょうか?

美羽である可能性

少女の外見: 映画の中では、少女の顔は映されていません。しかし、髪型や服装などから、美羽と共通する点が見られます。

沙織里的反応: 沙織里はこの少女を見かけると、一瞬立ち止まり、じっと見つめます。その表情には、驚きと懐かしさが混ざっているようにも見えます。

タイミング: このシーンは、美羽が失踪してから2年後というタイミングで訪れます。2年間消息不明だった美羽が、ようやく見つかったという希望的な解釈も可能です。

美羽ではない可能性

偶然の一致: 少女の外見やタイミングが美羽と似ているのは、単なる偶然の一致という可能性もあります。
沙織里的心情: 沙織里は、娘を失った悲しみと苦しみから、精神的に不安定な状態にあります。そのため、実際にはいない美羽の姿を見てしまう幻覚を見た可能性もあります。

映画「ミッシング」最後のシーンの少女は、美羽ではない別の少女である可能性が高いです。

しかし、沙織里にとっては、娘を思い起こさせる存在であり、希望の象徴と言えるでしょう。

ミッシング(映画)考察|最後のシーンの意味

映画監督の白石晃士氏は、このシーンについて明確な答えを出していません。観客それぞれの解釈に委ねることで、より深い余韻を持たせる狙いがあったと考えられます。

個人的には、この少女は美羽ではないと考えています。しかし、沙織里にとっては、娘を思い起こさせる存在であり、希望の象徴であることは間違いありません。

このラストシーンは、美羽が失踪したという事実の悲惨さを改めて訴えるとともに、失ったものを取り戻していく人間の強さも表現していると言えるでしょう。

ミッシング(映画)あらすじ

とある街で起きた幼女の失踪事件。
あらゆる手を尽くすも、見つからないまま3ヶ月が過ぎていた。

娘・美羽の帰りを待ち続けるも少しずつ世間の関心が薄れていくことに焦る母・沙織里は、夫・豊との温度差から、夫婦喧嘩が絶えない。唯一取材を続けてくれる地元テレビ局の記者・砂田を頼る日々だった。

そんな中、娘の失踪時に沙織里が推しのアイドルのライブに足を運んでいたことが知られると、ネット上で“育児放棄の母”と誹謗中傷の標的となってしまう。

世の中に溢れる欺瞞や好奇の目に晒され続けたことで沙織里の言動は次第に過剰になり、いつしかメディアが求める“悲劇の母”を演じてしまうほど、心を失くしていく。

一方、砂田には局上層部の意向で視聴率獲得の為に、沙織里や、沙織里の弟・圭吾に対する世間の関心を煽るような取材の指示が下ってしまう。

それでも沙織里は「ただただ、娘に会いたい」という一心で、世の中にすがり続ける。
その先にある、光に?

まとめ:ミッシング(映画)考察|美羽は見つかった?最後の女の子は?

この映画は、娘を誘拐された母親の苦悩と葛藤を描いた作品です。ラストシーンは、その苦悩の結末を明確に示すのではなく、観客に想像の余地を与えることで、より深い印象を残すようにしていると考えられます。

また、この映画は、現代社会におけるSNSやメディアの影響力についても警鐘を鳴らしている作品です。ラストシーンは、ネットの誹謗中傷や偏見が、人々に与える深刻な影響を象徴していると言えるでしょう。

タイトルとURLをコピーしました