水野信元wiki|最後・家系図は?大河ドラマどうする家康・麒麟がくる

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水野信元とは、徳川家康の母・於大の兄で織田家に味方する三河の国人領主。

家康のおじに当たる人物でNHK大河ドラマ「どうする家康」「麒麟がくる」などでも登場しましたが水野信元の最後は?

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水野信元wiki|最後は?

水野信元については諸説があるようですが、織田家・徳川家傘下の国衆ではあったものの天正三年、水野信元は徳川家康に呼ばれて三河に来たところを家康の家来、平岩親吉に殺害されたと言われています。

信元の妹が家康の生母なので家康は叔父の殺害を家来に命じ実行させたことになります。

武田家の秋山信友が攻略した美濃国岩村城に信長が囲城した際、水野領から食料の調達に応じる者があり、これを聞いた佐久間信盛が信長に讒言して織田信長の命によって徳川家康が三河に呼んで斬首しています。

その後、水野家の所領は佐久間信盛の物となりますが後に、これは無罪だったとして「佐久間信盛」が信長によって追放され、水野家の所領は信元の末弟・水野忠重の物となっています。

戦国大名・水野信元が斬首された理由については表向きは武田への内通疑惑ですが、現実は家康にとってその存在が邪魔だったからでは?という見方もあります。

織田にとっては1576年時点で400万石以上の超大大名であり、20万石前後の水野なぞいてもいなくても変わりません。

ですが徳川にとっては

隣接する
身内(母の兄)
当時の徳川勢力からみれば脅威の20万石前後

なので排除した方が将来的にもよく、更に母の実家なので徳川への影響力も大きいことから目の上のたん瘤だったのかもしれません。

水野信元wiki|家系図・子孫は?

水野信元の子孫について、江戸初期の名臣土井利勝は水野信元の子あたります。

徳川家康の落胤説、養父の土井利昌が実は実父と色々説があり、落胤説には家康によく似てたや家康に寵愛されたとあります

昭和10年に出版された「類聚伝記大日本史・第三巻」には、土井利勝の誕生の秘密について次のように書かれています。(コマ番号31/284)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879765/31

「利勝の生誕に就ては異説紛々として居る。土居家譜等に因ると家康の庶子なりと云ひ、または或時家康が狩に行くと一婦人が嬰児を懐(だい)て路上に迎へ涙を流して頼んだので、家康召してこれを育てた。これが即ち利勝である。そのため世人が家康の落胤と疑ふに至つたと。また國史家録によると、利勝の母が嘗て家康に仕へた。それで時々召して家康自ら箸をとり利勝に食はし、或は膝上に置いたので落胤の疑ひが生じたといふ。諸家深秘録、明良洪範、藩翰譜、落穂雑談等には、利勝は実は水野下野守信元の子であるとしてゐる。此説が或は事実に近いやうである。」

この本の記述によれば、土井利勝の家康落胤説の根拠は、土井家の家譜に書かれている単なる自称らしいです。
家康の庶子だとか、家康に託された嬰児を養ったとか、利勝の母が家康の寵愛を受けていたとか、そんな類の噂話が元になっています。
六代将軍・徳川家宣の重臣である新井白石が著した「藩翰譜」でさえ、土井利勝は水野信元の子であったと記しています。
土井利勝の家康落胤説は、いろいろな噂話を元にした土井家の家系図粉飾や私的な虚偽や捏造だと見たほうがいいのではないでしょうか?

ちなみに、水野家は徳川・松平家とは別に親藩ではありません。水野家は譜代大名でした。

親藩は家康の男系子孫の家ですので違います

水野家は本来松平家と同格の国人領主で、家康の時代も織田家につかえており、徳川家の家臣となったのは関ヶ原の戦い以後です

於大の方絡みで別格扱いは実家の水野家よりも再婚先の久松家ですね。 いずれも『松平』家の一門として遇しています。

水野家は徳川の治世下で何人かの老中などの幕閣を輩出しています。

徳川吉宗の享保の改革を助けた水野忠之や天保の改革を行なった水野忠邦など。

水野勝成を抜擢したのは若年の頃からよく見知っていて、その将器を見抜いていたからでしょう

事実、井伊直孝を除く徳川四天王の二代目がいまいちぱっとしないのに対して、勝成は大坂の夏の陣では見事な采配をみせました

まとめ:水野信元wiki|最後は?

水野信元は尾張の知多半島を統治して織田家と徳川家の間で奔走していた国人領主

20万石程度の所領があったとされます。松平元康が入城した大高城や、桶狭間や沓掛城の辺りの所領も含んでいる数値です。

俗に1万石で250人程度の兵力を有するとされますので5000人程度になります。ただ、自領での戦いでは人数は増えますし、遠征する場合は減るのが普通です。

織田信長の台頭以降、よほどの僻地でないかぎり中小の大名が独立を保つということは難しくなり大勢力に飲み込まれていくなか、水野信元は三河と尾張の国境という微妙な地域にありながら、いつまでたっても独立勢力気分が抜けず半独立状態だと自分だけは思っていた。

徳川家康ほどの大勢力で忠実な同盟相手ならともかく、織田信長にとって国境で独立勢力気取りの不安定な者がいては危険極まりなかった。

そこで信長は難癖つけて水野氏を粛清し後顧の憂いを断ったのであるが、水野信元は信元の方で武田の勢力が水野の勢力範囲に迫った時のために武田に色目を使っていた痕跡があり言い訳が出来なかった。

水野信元は織田の家臣でも徳川の家臣でもないと思っていたから、三ヶ方原のような織田徳川に絶望的な戦いに加わる義理は鳴りと思っていたのであるが、これが完全に裏目に出た形となった。

水野信元の最後について、徳川家康が織田信長の家臣を勝手に殺せば大変なことになるので、これは織田信長が徳川家康に頼んだ殺害で甥の徳川家康を水野信元も警戒しないとしての謀殺かもしれません。

何の遺恨も因縁も無い者を例え主君が命じられた暗殺命令の孫請け、した平岩親吉にはキツい仕事だったようで信元を殺したあと泣きながら親吉は信元の遺体に詫びたといいます。

『松平記』が記す信元殺害の原因は、秋山信友が攻略した美濃国岩村城を天正3年(1575年)に信長が囲城した際、水野領から食料の調達に応じる者があり、これを聞いた佐久間信盛が信長に対して、信元の内通を訴えたというものである。

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