「五月雨をあつめて早し最上川」という松尾芭蕉の俳句の意味は?
最上川の俳句はどんな風に情景・心情を解説!場所はどこ?
五月雨をあつめて早し最上川の情景・心情は?季語は?
「五月雨をあつめて早し最上川」の句の感動の中心は、「五月雨」による雨で水かさが多くなった最上川がすごい勢いで流れる、力強さにあります。
涼しの言葉の響きは美しいのですが、梅雨時にふる五月雨に涼はやはりあいません。(五月雨の季語は夏)
最上川の流域面積はほぼ山形県(面積9000km2)という大河です
普段はゆったりと流れている最上川も、ちょっと長雨が続くと、米沢盆地や山形盆地、新庄盆地など流域に降った雨水を集めて一気に増水します
とくに、新庄から酒田へ流れる中流域は、山間を流れ、水田などほかに水の逃げ道がありませんので、一気に水位が上昇し、激流となる
芭蕉がこの句を詠んだということは・・・・普段の最上川の景色を知っていたのでしょう
だから、その後あまりの激変ぶりに驚いて読んだのです
ちなみに、なぜ「速し」ではなく「早し」と表記したの昔は「早」と「急」を厳密に区別していなかったようです。
一例として、「徒然草」の第四十四段に、「都の空よりは、雲の往来も早きここちして」(山里では都の空よりも雲の行き来が速いような気がして)という表現があります。
ただ「奥の細道」は、松尾芭蕉の自筆本は残っていません。現在、最も信頼できると考えられているのは、素龍という人が筆写した「素龍本」と呼ばれるもので、この本では確かに、漢字で「早し」と書いています。ただし、自筆本がない以上、素龍さんが書き間違えたという可能性も排除できません
■参考:奥の細道(大石田・最上川 5月28日・29日)原文
最上川のらんと、大石田と云所に日和を待。爰に古き俳諧の種こぼれて、忘れぬ花のむかしをしたひ、 芦角一声の心をやはらげ、此道にさぐりあしゝて、新古ふた道にふみまよふといへども、みちしるべする人しなければと、わりなき一巻残しぬ。このたびの風流、 爰に至れり。
最上川は、みちのくより出て、山形を水上とす。ごてん・はやぶさなど云おそろしき難所有。板敷山の北を流て、果は酒田の海に入。左右山覆ひ、茂みの中に船を下す。是に稲つみたるをや、いな船といふならし。白糸の 滝は青葉の隙々に落て、仙人堂、岸に臨て立。水みなぎつて舟あやうし 。
○最上川乗らんと:最上川の舟下りをしようとの意。
○大石田:山形県北村山郡大石田町。当寺最上川舟下りの起点だった。
○芦角一声の心をやはらげ:<ろかくいっせいの・・>と読む。「蘆角」は、辺鄙な田舎という程度の意味、ゆえに、鄙びた俳諧だが人々を慰めることができるの意。
○この道にさぐり足して、新古二道に踏み迷ふといへども:<このみちにさぐりあしして、しんこにどうに・・>と読む。情報の乏しい鄙にいると、俳諧道に入ってみても、いま起こっている新しい動きが分からず、伝統俳諧への批判を理解できないまま、古今の俳諧の道に迷ってしまう、の意。
○わりなき一巻:俳諧の指導 のため仕方なく俳諧一巻を巻いて与えた。芭蕉にとってこれは、一栄や川水を指導するための「俳諧実習」だったのである。
○このたびの風流、ここに至れり。:この旅の俳諧の成果は、このような形 でも実現したのである。草深き東北の地に自分の俳諧理念が伝授された喜びを表す。
○隙々:<ひまひま>と読む。隙間のこと。
○碁点・隼:<ごてん・はやぶさ>と読む。最上川舟下りの難所。川中に碁石のように暗礁が点在するところからこう言ったという。
5月28日:馬を借りて天童に出る。ここで内蔵宅に立ち寄ってもてなされる。午後3時、大石田 高野一栄宅に到着。疲労のため句会を中止した。
5月29日:夜になって小雨が降る。この日、「五月雨を集て涼し」の発句で始まる四吟歌仙を巻く。会を終えてから、一栄と川水を誘って曹洞宗黒滝山向川寺に参詣。一栄宅に2泊目。
5月30日:朝のうち曇。8時ごろから晴れる。芭蕉は近くを散策の後、物書き。
6月1日:大石田を出発。途中まで一栄と川水が送ってくる。舟形町を経由して新庄市に入る。新庄に一泊。新庄の「風流」宅に宿泊。「水の奥氷室尋ぬる柳哉」と詠んだ。
6月2日:新庄に滞在。昼過ぎより盛信宅に招かれる。盛信は昨日の風流の本家筋に当る。ここで「風の香も南に近し最上川」を詠む。
6月3日:太陽暦では7月19日。新庄を出発。天気快晴。川舟にて東田川郡立川町を経由して羽黒町へ。この川舟の上で「集めて早し」となったという。
五月雨をあつめて早し最上川の場所はどこ?
松尾芭蕉は出羽三山へと至る「いのりの道」のスタート地点となる清川に上陸しています。
江戸時代には交通の要所であるこの地に関所があったとされ、現在も「舟つなぎの榎」や井戸跡が残っています。
■住所
999-6606 山形県庄内町清川字花崎1-1
■アクセス
国道47号線より、旧清川小学校へ右折してすぐ
五月雨をあつめて早し最上川の感想は?
船問屋でもあった俳人、高野一栄宅での句会において詠まれた句ですが、これもまた初案は違うものでした。
「はやし」ではなく「すずし」だったのです。
すさまじいギャップです。
「すずし」というと、水面に落ちた葉っぱもゆったりと流れていくような、のどかな川を連想しますが…
「はやし」だと、ものすごく水量が多くてゴーゴーと音をたてながら渦巻いている川を思い浮かべますよね。
では実際のところ、芭蕉が触れた最上川はどちらの状態だったのでしょうか。
結論から言うと、ゴーゴーと音をたてていたのです。
当時は梅雨で、雨が短い周期で降り続けていたそうです。
最上川の茶褐色の激流は、見る者を圧倒するほどだったようです。
では、なぜ第一声として芭蕉は「すずし」と詠んだのでしょうか。
それは実は、高野一栄の家にいるときの気持ちを表現したものだったのです。
最上川のほとりにあった高野宅は、川の上を通って温度を下げた風が良い具合に部屋に入り込んできました。
これがそうとう心地良いものだったのです。
この句が詠まれたのは1689年5月29日ですが、新暦でいえば7月15日にあたります。
夏真っ盛りです。
旅人であった芭蕉にとって、夏の暑さを少しでも回避できることは、かなりの喜びだったのです。
ですから「すずし」には、「この家は素晴らしいね」という、高野一栄に対する賛辞と御礼の意味が込められているというわけです。
ところが数日後、芭蕉は身をもって最上川の真の姿を思い知ります。
芭蕉は最上川を船で下ったのですが、奥の細道に「舟あやうし」と記されているほど、濁流に翻弄された大変な川下りだったのです。
後日、「すずし」は「はやし」に改められました。
そちらのほうが最上川の大観を表現するのに適切だと判断したわけです。
「日本三大急流」の一つとして有名になった最上川。もちろん芭蕉のおかげです。