直江兼続の子孫の現在は?
直江兼続の末裔は断絶している?
直江兼続の子孫・末裔の現在は?
結論から言うと、直江兼続には直系の子孫はいません。直江家は断絶しています。
子供が早死にし、養子も実家に返したので兼続の代で断絶。
ただ直江兼続の弟の大國実頼の子孫は王子製紙会長だった故大國昌彦で大国家(光頼子孫)直系。
また養子だったけど、その後実子が生まれて養子を辞した本多政重と本庄 長房には子孫はいるみたいですが、いずれにしても直江家からは離れているので、直江兼続の子孫・末裔とは言えないでしょう。
ちなみに、直江兼続の「直江」はお船の婿養子になった時にもらった名字で、元は「樋口」といいます。
まとめ:直江兼続の子孫・末裔の現在は?
兼続の子供たちは皆亡くなってしまってますから直系の子孫というのはいないとみなされています。
本多政重に嫁いで子をもうけたのは兼続の姪(弟の娘で兼続に引き取られて養女になった)です。
ただし兼続の弟が継いだ樋口家は存続してますしその子孫は現代にまで残っていたはずです。
また直江兼続の庶子とされる人物(実際には兼続の子ではなくお船の方の先夫との子なのではないかと推測されている)がいます。
他に直江夫妻と猶子関係を結んだ姫も記録にあります。
ちなみに、直江兼続は上杉謙信の従兄弟である長尾政景の家臣・樋口兼豊の長男として1560年に生まれました。
幼名を与六といいます。
樋口家は木曾義仲の四天王と呼ばれた樋口兼光の後裔と言われています。
与六には弟がいて与七は小国家の養子となります。もう一人の弟・与八は樋口家を相続して現在も山形県内に
子孫がいるそうです。
直江家は藤原不比等(鎌足の子)の子・麻呂の流れを汲んでおり越後の頸城郡直江庄を賜り、これを姓にしたそうです。
実綱(後の景綱)は長尾為景・晴景・謙信の3代に仕えました。
景綱の死後、謙信の命で長尾景貞の子・神五郎が景綱の娘・お船と結婚し直江信綱と称し直江家を継ぎます。
しかし御館の乱の論功のもつれから毛利秀広と山崎秀仙のごたごたに巻き込まれ秀広に斬殺されてしまいます。
勲功のある直江家の断絶を惜しみ上杉景勝が兼続に信綱未亡人のお船を娶らせ直江家を継がせます。
その後、兼続は新発田重家の謀反鎮圧や佐渡平定などの軍事面や内政面でも活躍します。
兼続は晩年、直江重光と改名しています。
関ヶ原後は親徳川に転換する為に徳川家家臣・本多正信の息子・政重を養子として兼続の長女・お松と結婚させ
政重を直江家の婿として迎え入れます。
後に政重は直江家を離れ加賀前田家の家老として迎えられます。
また兼続は同じ上杉家家臣の本庄繁長の子を養子に迎えたりもしますが、こちらも本庄家に戻っています。
兼続には景明という嫡男がいましたが生まれつきの病弱で19歳という若さでこの世を去ってしまいます。
景明死後、兼続は将来、藩の役に立つかどうかも分からない者を養子にして高禄を与え家を継がせるより今、自分が
頂戴している禄高を主君に奉還することが藩の財政にどれだけ大きく寄与するか分かっていた為、直江家を断家させる事を
決めます。
ちなみに直江家は断家されましたが直江兼続がルーツという家は今現在もあり実際、直江という苗字はあります。