山家集で西行法師の和歌
「願わくば 花の下にて 春死なん その望月の如月の頃」
「如月の望月のころ」とはいつの頃を指すんでしょうか?
この短歌の読み方・意味は?
願わくば花の下にて春死なん 読み方・意味は?いつ?
「願わくば 花の下にて 春死なん その望月の如月の頃」とは現代語訳すると意味は、
「願うなら、二月の満月の花の下で死にたいものだ」と言うような意味です。
この和歌は、西行の家集である山家集の花の歌群に入っています。山家集は、1175年頃には成立していたらしいので50代前半までの作といわれております。
正確には
ねがはくは花のしたにて春死なんそのきさらぎの望月の頃
で、花、月と美しいものの象徴と覚りを得たお釈迦様の入滅した日のあこがれをあらわしたものとされております。
伊勢神宮内宮に文治3年(1187年)に千載集を編纂した藤原俊成が判定を行い、奉納した自家歌合(自分の今までに歌った中の優れたものを撰んで歌合形式にしたもの)の御裳裾河歌合(みもすそがわうたあわせ)にも掲載しております。
太陰太陽暦は、月の満ち欠けと太陽の位置から、立春(今年は2月4日)のあたりに正月をもってきますが、一月が29日か30日で、季節がずれてしまうため、何年かに1回閏(うるう)月をもうけて13ヶ月を1年として調整していました。
そのため、同じ旧暦の日でも約1ヶ月ちがうことがあります。しがたって旧2月15日は、新暦の3月から4月頃までとなります。ちなみに今年の旧暦の2月15日は4月2日です。
如月は2月をさします。望月は15日付近で2月15日の意味はお釈迦様が涅槃(命日)に入られた日と伝えられている日です(実際は分かりません)。西行は仏籍に入っています。
しかも桜が咲く時期となれば、西行が歌った年の2月15日は、3月下旬から4月上旬頃ということになるかもしれませんね。当時は高野山のあたりに居ましたのでもうすこし遅いかもしれません。
和歌や俳句は、旧暦を使うことが多く、春は立春から立夏(今年は5月6日)の前日までですので、如月は春です。
日本では、いままで使っていた太陰太陽暦(旧暦)を明治5年12月3日を明治6年1月1日としたそうです。
一説によると明治政府が当時、財政難に陥っていたことから急場をしのぐために旧暦から太陽暦に変更することで実質的に1か月分を暦上から消すことができ、その分、官僚たちへの給料の支払いを梨にした、ともいわれています。
文治6年(1190年)2月16日(この日が満月らしい)に西行が大阪府の南河内町の弘川寺で亡くなり、歌のとおりだったので、それに当時の人々は驚き、俊成は
・・・かの上人、先年に桜の歌多くよみける中に、
願はくは・・・
かくよみたりしを、をかしく見給へしほどに、つひに如月十六日望月終り遂げけることは、いとあはれにありがたくおぼえて、物に書きつけ侍る
願ひ置きし花の下にて終りけり蓮の上もたがはざるらむ
と歌っております。
西行法師は他にも「願わくは花の下にて春死なんその如月の望月の頃」という和歌を残していますが、仏法に帰依した僧(西行)が、釈迦入滅の日(二月十五日)に死にたいと願うのは当然です。旧暦二月ですから美しく桜が咲き誇っています。その下で釈迦と同じ日に死ぬことを望んだのでしょう。
■2月15日(火)今日は何の日/
春一番名附けの日
春一番とは、春本番に先だって数日間にわたって吹く南からの強い風のことである。
気象庁では「立春から春分までの間で、日本海で低気圧が発達し、
初めて南よりの強風が吹き、気温が上昇する現象」と定義している。
元々は壱岐や瀬戸内海の漁民の間で使われていた言葉だったが、
気象用語になってから一般的になった。
西行忌,円位忌
歌人・西行法師の1190(文治6)年の忌日。
亡くなったのは旧暦2月16日であるが、
願はくは花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月の頃
の歌より、15日を忌日としている。
2月15日は釈迦入滅の日であり、この前後に亡くなることは
仏教の修業をする者にとっての憧れだった。
兼好忌
鎌倉時代末期から室町時代初頭の歌人で随筆『徒然草』の作者として知られる
兼好法師(俗名・卜部兼好)の1350(正平5)年の忌日。
ただし、1352年にはまだ存命だったとの説もある。
一般に「吉田兼好」と呼ばれているが、これは兼好の生家・卜部家が
京都吉田神社の神官をしており、その子孫が吉田姓を名乗った為に
後世の人がつけたものである。