徳川信康(松平信康)は何故切腹しなくてはいけなかったのでしょうか?
江戸幕府初代将軍「徳川家康」の長男で、第2代将軍「徳川秀忠」の異母兄にあたる人物ですが徳川信康(松平信康)切腹事件の真相は信長の命令?
徳川信康なぜ切腹?
徳川信康(松平信康)切腹事件の真相は近年の研究では信長の命令だとされているようです。
『信長公記(信長記)』の成立年代別分析が行なわれ、成立年代が古いものから、時代が進むにつれて、松平信康に関する記事に違いがあることを発見されました。
成立年代の古い順に、記事の記述は「信康の逆心」⇒「不慮に狂乱」⇒「記事」自体が無し。
西三河深溝城主:松平家忠の日記:『家忠日記』を日付順に分析した結果、現在では、松平信康は父:家康に「逆心(謀反)」を起こそうとして逆に家康に成敗されたと考えられています。
どうも、信康と信長の娘:五徳が不仲だったのは事実のようですが、信康が家康に謀反を企てた為に、家康は信長に信康の処置についてお伺いを立てたところ、信長は家康の思い通りにすれば良いと答えたようです。
信長のもとに、信康の悪評や五徳との不仲が届いていたか否かについては当時の一次史料が存在しないので分かりません。
そして、家康は信康を最初はただ単に追放しようとしただけだと思います。
信康の謀反の背景には、岡崎の信康派と浜松の家康派という徳川家内部の確執があります。
家康は信康の追放後に、家臣たちから起請文さえ取っていて、それでも岡崎で不穏な空気でもあったのでしょうか、最期に信康に切腹を命じたという形のようです。
さらに、信康の母:築山殿も不思議な動きをしています。
『家忠日記』を読む限り、家康が恐れていたのは信康と岡崎の家臣たちが何かを起こすのではないかということです。
まとめ:徳川信康なぜ切腹?
松平信康は天正七年九月十五日に自害しました。
そして、その約半年前の天正七年四月七日に徳川秀忠が生まれました。
徳川家康は、長男・徳川信康を切腹に追い込んでいますが理由は諸説あります
長篠の戦いの後で落ち目の武田家にあえて寝返るというのもおかしな話です。
家中統制に関する家康の失敗なのは明らかですが、後の神君史観のせいで真相が隠蔽されていると思われます。
他にも、
家康派閥と信康派閥の戦いに巻き込まれた
信康の母親が、本当に武田と内通して信康も織田より武田支持だった
信康の奥さんが徳姫で、信長に夫婦険悪をちくった
信長が息子の信忠と信康の器量の差で、殺したかった
など。
岡崎城の信康と浜松城の家康の家臣たちの間に対立があり、それには築山殿も加わっていたようです。
確かに、五徳と信康は不仲だったようで、家康が岡崎に来て取りなしてもだめだったようです。
そして、天正七(1579)年八月三日、家康が弓・鉄炮衆を連れて岡崎にやってくると、信康と対面しました。
翌四日、家康は信康を大浜に追放し、その後、遠州堀江から二俣城に移されて幽閉されました。
家康は、信康が五徳の婿であったことから、信長に使者を送って信康の処遇に対してお伺いを立てたのでしょう。
それに対して、信長は「是非に及ばず、家康存分次第」としか答えることが出来ませんでした。
家康も当初はただ追放するだけで赦そうと思っていたのではないでしょうか?
それが、信康の逆心には家臣たちも、さらには築山殿も関わっていたということが分かり、大浜から遠州堀江へ、最後には二俣城の幽閉になったようです。
九月十五日、信康は幽閉先で自害しました。
上記の様に、信康が切腹する約半年前に秀忠が生まれています。
家康は、自らの家中を確固たるものにする為に、信康と築山殿を成敗したのです。
徳川信康(松平信康)の子孫・子供は?
徳川信康(松平信康)には登久姫(とくひめ)と国姫という2人の娘がいました(いずれも徳姫の子)
登久姫が4歳の時に徳川信康(松平信康)が切腹。
翌年に母が美濃に帰ったため、登久姫と妹・熊姫は祖父・家康と側室の西郡局に養育されます。
登久姫は天正17年(1589)8月に、豊臣秀吉の仲介で、信濃国松本城主小笠原秀政に嫁ぎました。秀政との間に六男二女を授かり信濃飯田城にて32歳で死去した。
また妹の国姫は本多忠勝嫡男の本多忠政に嫁いでいます。
■登久姫の子女
万姫:阿波徳島藩主・蜂須賀至鎮室
忠脩:世嗣だったが大坂夏の陣で戦死
忠真:信濃松本藩第2代藩主
千代姫:肥後熊本藩初代藩主・細川忠利室
忠知:三河吉田藩初代藩主
重直:豊後高田藩初代藩主
忠慶:因幡守、子孫は家臣
長俊:徳川家光の小姓、従五位下出雲守
国姫の長女・国姫(有馬直純室・栄寿院) 慶安2年(1649)2月29日没
国姫の二女・亀姫(小笠原忠脩室・小笠原忠真室・円照院) 寛永20年10月18日没