ノースウエスト航空85便は離陸後の期待トラブルにより、あわや墜落の危機に瀕したものの4人の機長・副操縦士の連携によって見事に乗客・乗員全員が生還。
現代でも伝説的なクルー・リソース・マネジメント (Crew Resource Management; CRM) と絶賛されるノースウエスト航空85便緊急着陸事故についてまとめています。
ノースウエスト航空85便緊急着陸事故の経緯
2002年10月9日、ノースウエスト航空85便(NW85便)はミシガン州デトロイトのデトロイト国際空港を東部夏時間の1403年頃に出発し、東京の成田国際空港に向けて出発しました。
機長は54歳男性。総飛行時間は11,297時間で、そのうち630時間がB747-400型機の飛行である。副操縦士は57歳男性。総飛行時間は3,420時間で、そのうち651時間がB747-400型機の飛行である[3]。
85便には交代のため機長、副操縦士があと1名ずつ、合計4名が乗務していた。また、14名の客室乗務員が乗務していた。
アラスカ夏時間の17時40分、高度35,000フィート(約10,000m)で突然、機体が30~40度ほど左に傾く異常が発生。
その時は離陸及び成田空港への着陸を担当するシニア機長(訓練教官兼務)と副操縦士が休憩に入り、交代機長と副操縦士に操縦を交代したばかりだった
機長は当初エンジンに故障が生じたと考えたがエラーメッセージによりすぐにヨーダンパーの不具合と判明。
上下2枚に分かれた方向舵(ラダー)のうち下側のラダーがブローダウン限界の17度まで左に動き、その後も左に動いた形跡があるほど振れて制御できなくなり、操縦が不安定となった。
交代機長は緊急事態を宣言し飛行機をダイバート(緊急着陸)するためにアラスカのアンカレッジにあるテッド・スティーブンス国際空港に向かわせた。
飛行機は北アメリカとアジアの間のデッドゾーン(無線不感帯)を飛行していたため電波が弱く、アンカレッジ空港に通じなかった。
そこでアラスカ付近を飛行していたNW19便(ミネアポリス発成田行き、現・DL615便)が85便と連絡を取って支援した。途中でシニア機長は操縦室に戻り交代し、手動で操縦した。
このトラブルに対して機長は、副操縦士と一緒に利用可能な緊急手順を実行したが、緊急事態マニュアルにも対処法が掲載されておらず、いずれも問題解決には至りません。
操縦士たちはミネアポリスに住むノースウエスト航空の訓練教官と電話会議を行ったが、訓練教官は突然の傾きに対する解決策を見つけ出すことはできなかった。
このためクルーは下部方向舵(ラダー)が故障し補助翼(エルロン)が使用できないことから左右エンジンの推力を別々に細かく調整する賭けに出た。
アンカレッジ空港は山脈に囲まれ、失敗すると大惨事になる。空港では、最悪の場合のために準備が行われていた。
ノースウエスト航空85便緊急着陸事故の原因は?
ノースウエスト航空85便に使用されたボーイング747-451型機(機体記号:N661US、製造番号:23719/696)は1988年4月29日に製造され、1989年12月8日に納入された[2]。この機体はノースウエスト航空納入前のテストベッド機として使用されていた(機体記号:N401PW)。
エンジンはプラット・アンド・ホイットニー製のターボファンエンジンPW4056で、4基搭載していた
着陸態勢に入っていたノースウエスト航空85便は破損したラダーがの破片で油圧が外に逃げてしまったため、アンカレッジ空港に降りようとして車輪をおろそうとしたが、操縦桿やペダルが重くなってしまった。
機長は、操縦はペダルに足を置くのも10分が限界だった。アンカレッジ空港まで40分のところでノースウエスト航空の飛行機は飛行機の渋滞のため高度を下げられなかった。
アンカレッジ空港に引き返すには方向転換しなければならないが、ラダーが壊れたノースウエスト航空の飛行機は大幅に迂回しながら向きを変えられた。
着陸進入中に対気速度が低下したため、下側のラダーがさらに左に傾いたが、一度のチャンスに挑んで機体操作を取り戻すと着陸に成功。
機長によると、着陸後、下側のラダーが完全に左に傾いたままであることを確認した。
この事故調査には国家運輸安全委員会(NTSB)とボーイング社が着手。
下部ラダーのパワーコントロールモジュール(PCM)を点検したところ、下側のラダーが中央に位置していることが確認されました。
動力制御モジュールの中に目視で発見が難しい種類の金属疲労による亀裂が鍛造アルミニウム製ハウジング(マニホールド)で検出されます。
場所はヨー・ダンパー・アクチュエーター・ピストンを収納している制御モジュール・マニホールドの端の部分。
下部ラダーの制御モジュールを囲む鋳造金属の筐体が破損し、ヨー・ダンパーのアクチュエーターを格納していた制御モジュールの筐体の後部の一端が、筐体の本体部分から外れていた
そのため、中のピストンが外にはみ出し、元に戻らなかったため、操縦士が目撃したように、下側のラダーが左に大きくたわんでいた。
位置決めアクチュエータに接続されている油圧ラインを切り離さないと、下側ラダーの位置を変えることができなかったという。
破損した端部には、マニホールドに安全配線された金属製のエンドキャップがあり、マニホールドの分離した部分は安全ワイヤーでメイン部分に取り付けられたままだった。
アメリカ連邦航空局は、ラダーの操作を特殊なワイヤーで補強することを義務付けた。
ノースウエスト航空85便緊急着陸事故から4年後の2006年、同種の機体を使用したエールフランスの貨物便が、下部方向舵の故障で緊急着陸する事故が発生した。
直接的な原因(エールフランス機は「製造上の欠陥」)こそ異なるものの、ノースウエスト航空85便と同じ動力制御装置の破損が見つかった。
ノースウエスト航空85便緊急着陸事故の機長のその後は?
通常は内部の部品が破損することが多いが、今回は筐体自体が破損したものであり、調査団も「極めてまれなことだ」と語った。しかし、金属疲労の根本的な原因は解明に至らなかった。
その一方でこの機材は、-400シリーズの初号機で、納入前に試験飛行を1年半以上実施(これまでの飛行時間は50,090時間[2])しているため、想定以上の負荷が掛かった分、金属疲労が他の同型機より進んでいる可能性も指摘した。
NTSBは可能性の高い原因として「下部方向舵の動力制御装置の金属疲労による破断の結果が引き起こした下部方向舵の操作不能」と裁定した
もう一方で、これほどの事態にも関わらず墜落に至らなかった理由も併せて調査された。
その一つが、747シリーズの方向舵がフェイルセーフ(信頼性設計)のため通常の1枚ではなく上下2枚に分割されていた事にあった。これがうまく機能していた。
もう一つの理由が、クルー・リソース・マネジメント (Crew Resource Management; CRM) にあった。交代機長は異常が発生するとすぐに対応し、墜落を防止した。その後も4人全員がそれぞれの役割を把握し、作業にあたった。
操縦の交代以降の役割は以下の通りだった。
シニア機長…実際の操縦とミネアポリスとの連絡
交代副操縦士…無線交信及び操縦(機長が休憩する間)
交代機長…客室への連絡
シニア副操縦士…エンジン操作及びマニュアル等の確認
後のインタビューで機長は「乗務員のチームワークがアンカレッジでの安全な着陸に貢献した。これがCRMの最高水準の実践例である。操縦士がこれほど充分に乗務していたことは幸運で恵まれていた。操縦室では4人のパイロットが協力して作業に当たった。客室乗務員たちも優れたメンバーで、これは後に重要となる。なぜなら我々は緊急レベルが赤、すなわち避難しなければならなくなるのは確実だと説明したからだ。つまり我々は機体を滑走路上に保てる確信がなかった[5]」と語った。パイロット達は事故後、シューペリア・エアマンシップ賞を授与された[7]。
■ノースウエスト航空85便緊急着陸事故当時の状況
乗客数 386
乗員数 18
負傷者数 0
死者数 0
生存者数 404(全員)
機種 ボーイング747-451[注釈 1]
運用者 ノースウエスト航空
機体記号 N661US
出発地 デトロイト・メトロポリタン・ウェイン・カウンティ空港
目的地 新東京国際空港 (現成田国際空港)