尾上縫は1980年代後半のバブル全盛期の頃、尾上縫さんは自身が女将を務める料亭の客らに対して、占いと神のお告げによって株式相場の上昇や競馬の勝ち馬などを見事に言い当てるとして評判となった人物。
1998(平成10)年に懲役12年の実刑判決を受けて刑務所に収監されていましたが尾上縫の若い頃は?子供・旦那など家族は?
ちなみに尾上縫の巨額詐欺事件の全貌や晩年については清水一行さんによる『女帝:小説・尾上縫』で詳しく触れられています。
尾上縫の若い頃は?子供・旦那など家族は?
尾上縫さんは料亭の経営の傍らで自らも銀行から多額の融資を受けて株式の売買を行うようになると、バブル絶頂期の1988年には、2270億円を金融機関から借り入れ、400億円近い定期預金を持っていた。
一時は株取引で48億円の利益を得て1987年から日本興業銀行の割引金融債ワリコーを288億円購入し、55億円の金利を受け取るなどこの世の栄華を極めたような生活ぶりでしたが、バブル景気に陰りが見えるとみるみる運用履歴が悪化
負債が膨れ上がり1989年の延べ累計額では借入が1兆1975億円、返済が6821億円で、270億円の利息を支払っています。
借入金の金利負担は1日あたり1億7173万円にも上るようになると、以前から手を染めていた詐欺行為を本格的に始めてしまいます。
かねてより親交のあった東洋信用金庫今里支店長らと共謀して、架空の預金証書を作成させ、それを別の金融機関に持ち込み、担保として差し入れていた株券や金融債と入れ替え、それらを取り戻すなどの手口で犯行を重ねた。
興銀系の800億円を筆頭にナショナルリース500億円、いずみファイナンス400億円、セントラルファイナンス、日貿信、住商リース各300億円など12の金融機関から3420億円を詐取していた。
1991年8月初旬に尾上縫さん自身が興銀の担当者に打ち明けたことで発覚。
興銀は自行の債権33億円を売り抜けて回収した直後、8月13日に尾上縫さんは詐欺罪で逮捕されたています。
尾上縫さんは7億円の保釈金を用意して翌1992年3月に保釈され]、同年6月に大阪地方裁判所で破産宣告を受けています。
金融機関からの借入金総額はのべ2兆7736億円、支払額はのべ2兆3060億円に達しており、拘置所で破産手続を行った際の負債総額は4300億円で、個人としては日本で史上最高額となった。
裁判で尾上縫さんの弁護人は「尾上に株式の知識が全くなく、周囲に踊らされていただけであり、責任能力はない」と主張したが認められず、懲役12年の実刑判決を受けています。
ちなみに、巨額の融資を行った日本興業銀行は富士銀行(いずれも当時の銀行名)と合併し、みずほコーポレート銀行(存続会社は富士銀行)となり、また、東洋信金は経営破綻し、府下の複数の信金へ分割併合され共に現存していない。
尾上縫さんと深くかかわった金融機関がことごとく世の中から姿を消すことになりました。
そんな尾上縫さんは1931(昭和6)年に奈良県磯城郡多村新口(現・橿原市)の農家の5人きょうだいの次女として誕生。
弟の1人は栄養失調で幼児期の内に死去するという極貧家庭であった。
さらに父は10歳の時に病死。以後、母は株の仲買人をしていた豪農の男の庇護を受けて生活していた。
若い頃は1944年に高等小学校を卒業後、国鉄の駅員や工場勤務をなどを経て大阪市内のデパートに勤めています。
水商売で5年ほど働いたのち、19歳で結婚して一女をもうけたが25歳で離婚。離婚後にスタンドバーを経営するも上手く行かなかった。
娘を元夫に預け、大阪ミナミのすき焼き店「いろは」で仲居として働くうち、店の客である経済界の有力者の支援で、旅館「三楽」を購入。
旅館を改装して1965(昭和40)年ころ30代半ばで料亭「恵川」の女将となります。
他にもバーや1971年に開業した麻雀店、1983年に「恵川」の隣で開業した大衆料理店「大黒や」なども経営し、不動産もいくつか所有した。
しかし尾上縫さんには経営の才能がなく、経営する店舗はいずれも赤字続き。
放漫経営によりいつ店が潰れてもおかしくなかったが、店舗の経営資金は強力なスポンサーなどによりどこからか調達されていたそうです。