フジテレビのドラマ「大奥」でなぜ側室のお知保が妊娠?
第5話「第5話 運命の再会・・・城を出るか!?禁断の恋に揺れる倫子」で、徳川家治(亀梨和也)が側室のお知保(森川葵)へ御渡りするシーンはすぐ終わっていますがどうなんでしょうか?
ドラマ大奥(フジテレビ)なぜ側室(お知保)が妊娠?徳川家治のお渡り
<木曜劇場「大奥」>第5話視聴率4.2% 小芝風花主演のフジ連ドラ 母が病、「一緒に京に帰らないか」と
俳優の小芝風花さん主演の木曜劇場「大奥」(フジテレビ系、木曜午後10時)の第5話が、2月15日に放送され、平均視聴率(関東地区、ビデオリサーチ調べ・以下同)は世帯4.2%、個人2.4%だった。
「大奥」は、同局で2003年6月に連続ドラマ「大奥」を放送して以来、3本の連続ドラマ、6本の単発ドラマを放送。2006年12月には映画が公開され、2007年には舞台も上演された。
https://news.yahoo.co.jp/articles/121b2b5fb5e2cafcb9d24a519b2572da15cd8438
ドラマ「大奥」(フジテレビ系)では側室・お知保(森川葵)が、御台所・倫子(小芝風花)に先んじて10代将軍・徳川家治(亀梨和也)の寵愛を受け
お知保は無事に子どもを出産しますが、家治(将軍)と知保が行為に至らなければ、知保が懐妊することはありません。
ドラマ「大奥」(フジテレビ系)でもそれと分かる映像表現が行われています。
家治は「これで満足だろう」とは言っていません。
「もう用は済んだであろう」と言って立ち去ります。
用は済んだ→することはした→地保の望みは叶えた、という意味です。
この家治のセリフからも、二人の間に行為があったことを読み取ることができます。
家治が知保に覆いかぶさっているショットから家治が立ち去るショットに飛んでいます。このときにディゾルブと言って、徐々に映像が移り変わっていく技法が使われていますが、これは時間経過を表現するための技法です。
本来ならば、ディゾルブを使わずにブリッジ・ショット(例えばこの場面だと、家治が枕元の行燈の灯を落として映像が暗くなる)を使った方が近年の一般的な表現で分かりやすかったと思います。
お知保(徳川家治の側室)は実在?モデルは?ドラマ大奥(フジテレビ)
愛妻家であったと伝わる徳川家治は家臣達に側室を勧められても嫌がり、なかなか首を縦に振りませんでした。
周囲にいた女性の数は限られており、側室を持つのも遅かったことから、直系の後継は叶いませんでした。裏を返せば、側にいる人は厳選されていたとも言えるのです。
徳川家治の側室は
お知保
お品
の2人のみ。
迎えた側室のお知保との間に無事に男子が生まれましたが、男子が生まれたのちは側室のもとにまったく通わなくなってしまいました。さらに、生まれた子供の養育は正室の倫子に任せています。
お知保は実在する徳川家治の側室である蓮光院(れんこういん) がモデルです。
蓮光院|お知保(徳川家治の側室)の実在モデル
蓮光院(れんこういん)
元文2年11月15日(1737年12月6日)
~寛政3年3月8日(1791年4月10日))
徳川家基の生母。
俗名は知保、智保。
父は津田宇右衛門信成。
養父は伊奈忠宥。
寛延2年(1749年)11月
大御所・徳川家重の御次として仕え、
初めは「お蔦」、後に「お知保」と称した。
宝暦12年(1762年)10月25日
長男・家基(幼名・竹千代)を出産したが、
同年11月
家治の御台所・五十宮倫子がその養母となったため、
家基は倫子のもとで育てられた。
なお、家基は安永8年(1779年)は18歳の若さで急死
天明6年(1786年)
家治が逝去すると、落飾して「蓮光院」と称し、同年11月3日江戸城二の丸へと居を移した。
徳川家基(徳川家治と側室のお知保の子供)急死の理由
徳川家基は明和二年(1765)十二月一日、竹千代は名を家基と改め、翌三年四月七日、元服して従二位権大納言となりました。
世子家基は、十八歳になり、政治むきの事もわかるようになっていた。
安永八年二月二十一日、家基は江戸近郊の新井宿に鷹狩りに出かけた。品川東海寺で休息したところ、家基はにわかに気分が悪くなり、腹痛を訴えた。その日、お供についていたのは、意次の息のかかった典医 池原雲伯でした。雲伯が煎じた薬湯を服用したが、痛みがおさまらず、西の丸に急いで戻る途中、駕籠の中から物凄いうなり声が聞こえていたと言われています。驚いた家治は医師の手厚い治療をうけさせ、諸寺に当病平瘉の祈祷をさせましたが、家基は二十三日に急逝しました。
聡明であったとされる徳川家基は鷹狩りの帰りに変死したため、自然死ではなく、
1)田沼意次による毒殺
2)徳川治済による毒殺
3)両者の共謀説
などがあります
雲伯が意次の意を受けて斑猫(はんみょう)の毒を一服盛ったのではないかと言う噂が立ちましたが、真偽のほどはつまびらかではないですが、あまりにも突然の家基の死は、さまざまな憶測を呼ぶ事になりました。
ただ田沼意次がたかが17歳の少年の存在をそれほど恐れていたとは考えにくいことです。
将軍徳川家治はそれから7年も生きているのですし、その死も暗殺説が囁かれている。
夢想家の若者を説得するには充分な時間ですし大御所家治が存命なら彼の権力が脅かされる心配などない。
ここで大急ぎで始末しなければならない理由などどこにもないのです。
子を始末し、その後同じ方法で親を始末して権力を奪い取ったのだと考えた方がいかにも自然ですね。
自然通り親が死に子が死んでいたら家斉に将軍の座が転がり込んできたかどうかは非常に微妙です。