石田三成による忍城の水攻めはなぜ失敗したのでしょうか?
1590年に行われた「石田三成」を総大将とし行われた「忍城・水攻め」は映画『のぼうの城』でも描かれました。
忍城攻略・水攻めが失敗したのは石田三成らが戦下手だったからでしょうか?
忍城の水攻めなぜ失敗?理由は?石田三成で映画『のぼうの城』
石田三成の、忍城の水攻めは、なぜ失敗したのかというと「忍城」自体の構造に要因が大きいようです。
- 忍城は、高松城よりも規模が大きく、そのため堤防も長大になりました。その結果、堤防の完成が遅れたり、手抜き工事が行われたりと、決壊しやすい状況になりました。
- 忍城は、周囲を湿地に囲まれており、堀も水で囲まれていました。そのため、水攻めの効果が薄く、城兵は水に困りませんでした。
- 忍城側は、水攻めに備えて、城内に水を汲み上げて貯めておき、逆に潤いました。
- 忍城側は、十分な兵糧を備えており、持久戦に耐えられる状況でした。
- 水攻めの効果が出ないまま、梅雨の雨が降り続き、ついに堤防が決壊しました。
忍城は水攻めには不向きな城で、元々平坦な土地(水が溜まらない)な上に、城自体は周囲より若干高めの土地に築かれていました。
周りは低湿地なので水攻めも難しいが大軍で包囲して近づく事も難しい難攻不落の城だった事は確かなようです。
かつては上杉謙信の攻撃にも耐えていますから、非常に攻めづらい城だったんでしょうね。
ただ最新の史料研究によれば、忍城の水攻めは実際には行われなかった可能性が高まっています。
忍城の水攻めに関する記述は、「関八州古戦録」と「成田記」にあります。これらの記録によれば、堤防によって城の周りに水がたまり始め、ある日突然大雨が降りだして堤が決壊しました。しかし、これらの記録は江戸時代に書かれたものであり、信憑性が低いとされています。
実際の第一級史料や当時の書簡には、忍城の水攻めに関する記述が見当たりません。また、忍城攻めに参加した各大名の書簡にも水攻めについての言及がありません。
現在の専門家の間では、「水攻めを行う前に忍城は開城した」という見解が主流です。実際、忍城攻めの直前に石田三成が浅野長吉に宛てた書簡が残っており、「水攻めをするつもりはない」と書かれています。この書簡からは、水攻めの準備は進められていたものの、実際には水攻めが決まっていたわけではなく、柔軟に戦略を調整する姿勢がうかがえます。
同様の書簡には、水攻めは困難であるという言及もあり、実際に堤防が建設されていたことから、水攻めは考慮された別の作戦であった可能性が示唆されます。
さらに、堤防が完成する前に小田原本城が降伏し、その1週間後に忍城も開城したという事実が確認されています。忍城の開城直前には一部で小競り合いがありましたが、これは堤防建設中に起きた出来事とされています。
したがって、事実に基づく記録によれば、堤防が完成する前に忍城が開城したため、水攻めは実行されなかったと考えられます。開城時の書簡にも水攻めが行われた記録は見つかっておらず、布陣した各大名の書簡にも水攻めに関する記述はありません。
忍城(映画『のぼうの城』)とは?
忍城は、1478年に、武蔵国の豪族である成田氏が、この地を支配していた忍一族を滅ぼし、築城した城です。北は利根川、南は荒川に挟まれ、周辺は広大な湿地帯となっていました。そのため、自然の地形が要塞の役割を果たしていました。
また、忍城の構造は、沼地に点在する独立した島を、曲輪(城の内外を土塁・堀などで区画した区域)として、橋を渡す形で城が築かれていました。そのため、攻めにくい城だったと言えます。
忍城は、戦国時代の武将、上杉謙信や徳川家康の攻撃にも耐え抜き、その難攻不落ぶりから「浮き城」や「天下無双の城」と呼ばれました。現在も、当時の姿を残す部分が多く残っており、国指定の特別史跡となっています。
まとめ:石田三成は忍城の水攻めなぜ失敗?理由は?
忍城は1478年(文明10年)に、成田氏という豪族が武蔵国(現在の東京都、埼玉県、神奈川県北東部)で忍一族と呼ばれる一族を滅ぼし、築城されました。この城は北側に利根川、南側に荒川が流れており、周りは大きな湿地帯に囲まれていたため、自然の地形が要塞の役割を果たしていました。
忍城の構造は、湿地帯に点在する独立した島を曲輪と呼ばれる区域で区切り、橋を渡って城内に入る形になっていました。これによって、攻めてくる敵に対して防御しやすい城となっていました。
忍城の水攻めは、江戸時代中期に書かれた「関八州古戦録」や、江戸時代末期に書かれた物語「成田記」に書かれていますが、これらの史料は信憑性が低いと考えられています。
なぜなら、これらの史料は、水攻めの後に書かれた書簡や、水攻めに出陣した各大名の書簡と矛盾しているからです。
水攻めに固執したのは秀吉の方だったという事が忍城攻めをめぐっての秀吉の書状や三成らの書状で明らかになっています。
例えば、石田三成は、浅野長吉に宛てた書簡の中で、「忍城攻めの準備は順調だが、みな水攻めをするものばかりだと思いこんで、城に押し寄せようとする気もない」と愚痴っています。このことから、三成は水攻めを実行するつもりはなかったことがわかります。
また、堤防が完成する前に小田原本城が降伏し、その1週間後に忍城が開城しています。これは、水攻めが実行される前に忍城が開城したことを意味しています。
これらのことから、忍城の水攻めは行われなかったと考えられています。