サンドロ・ド・ナシメントwiki|バス174(ブラジル2000バスハイジャック事件)犯人

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サンドロ・ド・ナシメント(Sandro do Nascimento)は2000年6月12日、リオデジャネイロで起こったバスハイジャック事件の犯人。

「バス174」として映画化もされているバスハイジャック事件とサンドロ・ド・ナシメントについて。

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ブラジル2000バスハイジャック事件wiki|犯人はサンドロ・ド・ナシメント

2000年6月12日午後2時頃、サンドロ・ド・ナシメントはリオデジャネイロ市内を走るバスに強盗目的で乗車しました。 しかしすぐに通報され、強盗は未遂に終わり、警察に取り囲まれます。 バスの中には逃げ遅れた11人の乗客がおり、ナシメントは銃を振りかざし、その乗客を人質に取って立て籠りました。

■事件発生時の状況
事件はすぐにマスコミの知る所となり、多くのテレビ局が事件を生中継で伝えました。 ナシメントは興奮し「撃つぞ!まずはこの女からだ」と息巻きました。 緊迫した状況の中、特殊部隊が配備される騒ぎになりました。

ナシメントはカメラが多数来ていることに気付き、生中継中は警察も無理な行動はしてこないだろうと、過激な発言・行動を行うようになります。 それは、銃で外に向けて発砲したり、人質の女性にリップで窓に「6時に彼は私達を皆殺しにする」「彼は悪魔と手を組んでいる」という言葉を書かせたりしました。 また、ナシメントは「見てろ!そっちが本気ならこっちも本気だ!6時になったらブラジル中にこいつらが死ぬところを見せてやる!俺の顔を見てみろ、ハッタリじゃねえぞ!」と激しく挑発しました。

さらにナシメントは、「ブラジル国民よ!俺はカンデラリアにいたんだ!マジな話だ、友達は卑怯者に殺された!俺に失うものはない、俺も同じように殺すのか?やってみやがれ!」と叫びました。 ナシメントはカメラの前で、自身の素性とこれまでの警察の横暴を暴露したのです。 警察はこのことでさらに手を出しづらくなり、警察上層部も「犯人を殺すな」という指示を現場の警察たちに出しました。

■膠着状態と犯人の要求
そんな戸惑っている警察に対し、ナシメントは「手榴弾2個とライフルを用意しろ!」と、逃走用に使用する為に要求します。 しかし、もちろんそんな要求を警察が飲むわけもなく、現場は更に緊迫した状態が続きました。

■事件の終焉
午後5時半、事件が開始から3時間が経過した頃、事件が動き出します。 ナシメントは「おいお前、女を飛行機から投げ捨てる映画を見たことあるか?俺は投げ捨てることはしない、ひざまずかせて好きな時に撃ち殺すんだ!」と言って人質の1人をひざまずかせ、銃を向けました。 警察はナシメントに「君の為に運転手と車を用意している。落ち着け、彼女から銃をそらすんだ」と説得します。

すると、ナシメントは「要求したのはライフルと手榴弾だ。おい警察見てろ!こうなったら仕方ない、どうなるかわからせてやるよ、1人ずつ殺してやるから見てろ!」と叫ぶと、人質に向けて発砲します。 そして、「全員殺すから楽しみにしてろ!」と発言しました。 ナシメントが告げた午後6時になる10分前、ナシメントが人質の1人を連れバスの外に出ました。

すると、ナシメントの背後に1人の特殊部隊が接近し、ナシメントに向けて発砲、ナシメントも反撃で3発発砲します。 だが、特殊部隊の発砲は実は撃ち損じており、誤って人質に当たっていました。 しかも、ナシメントの3発の銃弾も人質に当たっており、人質の女性は死亡します。 ナシメントは無傷で捕らえられるも、パトカーで連行中に窒息死してしまいます。

■事件後の真相
後の警察は、ナシメントの死因は窒息死で、ナシメントがパトカーの窓を破るほどひどく暴れたため、やむを得ず首を絞めて気絶させようとした、と公表します。

しかし、後に事件の全貌が明らかになります。 人質の女性は「彼(ナシメント)に言われたんです。悲鳴を上げて取り乱して見せるように。皆言う通りにしたわ」と発言し、更に「彼は私に『いいか、お前を殺しはしない。俺が撃ったら皆で悲鳴を上げるんだ』と」と証言しました。

ナシメントは要求をのませるために、人質を使って芝居を打っていたことが判明するのです。 では何故、人質はナシメントに協力したのでしょうか?それは、ナシメントが「俺は逃げたいだけだ。殺しなんかしたくない。無抵抗な人間が殺されるのはカンデラリアだけで充分だ。俺は警察の奴らなんかと違う」と話し、人質には手を出さないと言ったからです。

ナシメントは人質に同情され、彼らを傷つけることなく事件を解決しようと試みていました。 しかし、警察の失態により人質の女性は死亡し、ナシメントもまた命を落としてしまいます。

サンドロ・ド・ナシメントwiki|ブラジル2000バスハイジャック事件の犯人

サンドロ・ロサ・ド・ナシメントは1978年7月7日、ブラジル・リオデジャネイロで生まれました。 誕生時に父親と祖父母はおらず、母親に育てられました。 6歳の時にスラム街で母親を殺害されるのを目撃し、大きなショックを受けました。 その後、身寄りのないナシメントはストリートチルドレンとなり、カンデラリア教会で生活するようになりました。

カンデラリア教会は、違法薬物売買や売春などに手を染めた家がない子供たちの簡易宿泊所として、食料や教育、宗教指導などの支援を行っていました。 しかし1993年7月23日、ナシメントが15歳の時、カンデラリア教会虐殺事件が発生します。

教会で寝ていたストリートチルドレンに、警察官を含むグループが発砲し、8人が死亡した事件です。 ナシメントはこの事件で友人を亡くし、自身も標的にされました。 この事件はナシメントに深いトラウマを残し、彼の人生に大きな影を落とすことになります。

その後、ナシメントはスラム街で犯罪行為を繰り返し、刑務所に何度も収監される荒んだ生活を送りました。 しかしドナという女性と出会い、共同生活を送ることで更生を試みます。 仕事を探そうとしますが、読み書きも仕事の経験もない彼には仕事が見つかりませんでした。

社会に見捨てられ、希望を失ったナシメントは、「もううんざりだ。仕事なんかないよ。読み書きはできないし、仕事をした経験もない。僕に何ができるの?誰がチャンスをくれるの?誰もいないよ」と嘆き、再び犯罪に手を染めるようになりました。 そして2000年6月12日、リオデジャネイロ市内を走るバスに強盗目的で乗車したことがきっかけで、バスジャック事件を起こすことになります。

サンドロ・ド・ナシメントはカンデラリア教会虐殺事件の生存者|ブラジル2000バスハイジャック事件)犯人

カンデラリア教会虐殺事件は1993年7月23日、ブラジルのリオデジャネイロにあるカンデラリア教会で、路上生活をしていた子どもたち数十人が銃撃され、8人が死亡した事件。

カンデラリア教会は、路上生活をする子どもたちに夜間、寝場所を提供しており、事件当時も教会の前には多くの子どもたちが集まっていた。

市民の多くは、ストリートチルドレンに対するこの虐殺を支持し、悪が一掃され街が浄化されたと捉えていた。

この事件の生存者の一人であるサンドロ・ド・ナシメントは、後にバスジャック事件を起こし、「オレはカンデラリアにいたんだ!覚えているか?!」と叫んだ。

サンドロはこの事件がきっかけでドラッグに溺れるようになり、窃盗を繰り返すようになったという証言もある。

この事件は、ブラジル社会におけるストリートチルドレンに対する無関心と、彼らへの根強い偏見を浮き彫りにした。

バス174wiki|ブラジル2000バスハイジャック事件

「バス174」は、サンドロ・ド・ナシメントによるバスジャック事件を描いたドキュメンタリー映画です。

この映画は、事件の生々しい映像と関係者へのインタビューを通して、事件の真相に迫ります。

事件の背景には、ブラジル社会が抱える貧困、ストリートチルドレンの問題、そして刑事司法制度の闇が存在することが浮き彫りになります。

監督のジョゼ・パジーリャは、この事件を生中継したテレビ映像を入手し、事件関係者、社会学者、ストリートチルドレン、サンドロを知る人々へのインタビューを交えながら、サンドロが事件を起こすに至った背景を丁寧に追っていきます。

映画では、サンドロが置かれていた過酷な状況だけでなく、彼を取り巻く社会にも焦点が当てられています。 ストリートチルドレンに対する偏見や無関心、貧困層に厳しい刑事司法制度、そしてセンセーショナルな報道に走るメディアなど、ブラジル社会の矛盾が浮き彫りになっていきます。

「バス174」は、単なるバスジャック事件のドキュメンタリーではなく、ブラジル社会の抱える問題を浮き彫りにした社会派作品と言えるでしょう。

まとめ:サンドロ・ド・ナシメントwiki|バス174(ブラジル2000バスハイジャック事件)犯人

サンドロ・ド・ナシメントは、1978年7月7日、ブラジル・リオデジャネイロで生まれました。 彼は幼少期に母親を殺害されるなど、過酷な環境で育ちました。 1993年には、カンデラリア教会で起きたストリートチルドレン虐殺事件を経験し、心に深い傷を負っていました。

これらの経験が、彼が起こしたバスジャック事件へと繋がっていったと言えるでしょう。

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