源実朝には子供やご落胤はいたんでしょうか?
鎌倉幕府3代目将軍・源実朝の妻や子孫は?
源実朝に子供・落胤は?
【鎌倉殿の13人】源実朝、驚きのカミングアウトにネット騒然「まさかのBL要素」「奥さんもかわいそう」
すると、実朝は千世の手を握りしめ、「初めて人に打ち明ける。私には、世継ぎをつくることができないのだ。あなたのせいではない。私はどうしても、そういう気持ちになれない。もっと早く言うべきだった。すまなく思うから、一緒にもいづらかった」と打ち明けた。
千世は「ずっと、お一人で悩んでいらっしゃったのですね。話してくださり、うれしゅうございました」と話し、抱きしめた。「私には応えてやることができない…」と躊躇(ちゅうちょ)する実朝に、「それでも構いませぬ」とギュッと抱きつく。実朝はそっと千世の背中に手を伸ばした。
https://news.yahoo.co.jp/articles/006a9a0a68ff11e1ff2abda6e26cbb1eff6e5b99
史実では源実朝には子供やご落胤はいません。
源実朝は跡継ぎ作りには励んでいたのかもしれませんが、「吾妻鏡」には
「諫諍の趣、もっとも甘心す。されど源氏の正統、いまに縮りぬ。子孫、嗣ぐべからず。されば官位を進め、家名を挙げんとす。」
という源実朝が行ったとされるセリフがあります。
「自分には跡取りが生まれないので源氏の正統は断絶することになる。そうなる前に家名だけは挙げておきたい」という意味です。
このセリフは源実朝は、官位の昇進を望み右大臣となっているのですが、あまりに昇進を急ぐ実朝に対して叔父の北条義時が大江広元を通じて注意をしたときのこと。
ほかにも、「愚管抄」によると源実朝の母・母親の北条政子も熊野詣と称して実朝の後継として後鳥羽上皇の皇子を一人願えないか、と交渉しに行っていたようです。実朝生存中すでに。
実朝が暗殺していなければ、これが穏便に実現されていたことでしょう。
もはや幕府の実権は、執権の北条氏に移っていたから、何も源氏の頼朝の血筋に、強くこだわる必要性は、なくなっていました。
朝廷による鎌倉幕府への影響力が強くなることが考えられ、これは御家人たちちの疑念を招ことにもなります。
実朝が暗殺された真の理由は、実はそのへんにあるのではないか、とも言われています。
もしくは皇族を将軍として迎える(親王将軍)という形の方が、鎌倉はまとまりやすいというのが、鎌倉の武士の間で、定着しつつあったのかもしれません。
源実朝に同性愛者説?
この時代同性愛、と言いますかいわゆる衆道というのは決して珍しいことではなく、現に後白河法皇も両性愛者であったと言われています
ただ、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で描かれている実朝の実年齢は1205年時点で満12~3歳(実朝は9月生まれ、季節描写は夏だったので満13歳には達していない)
数え年齢でもまだ14歳です
この年齢で周囲の勧めで妻をもらったからといって、成人同様の結婚生活を送れるか…と言えばやはり難しく、妻とは会話を交わすのが精々なのではないでしょうか
実朝の兄、頼家が鎌倉殿となり側室のつつじまで娶ったのは数え18歳頃、満年齢なら16~7歳ぐらいです
同じ時代を扱っていた「草燃える」では、善哉(公暁)と三浦義村の息子 駒若丸の関係がかなりしっかりと描かれていました
源実朝の妻は西八条禅尼
源実朝の妻は坊門姫(西八条禅尼・本覚尼)
鎌倉時代の公家の女性。坊門信清の娘。元久1(1204)年,将軍源実朝の御台所として鎌倉に下向。この婚姻は,鎌倉幕府と朝廷の融和策として最上の手段であり,父信清は,幕府に朝廷側の意向を代弁する立場に立つことになった。実朝との仲は睦まじく,その母政子ともよく寺や堂に参詣している。たとえば,建保1(1213)年の和田義盛の乱で営中が焼失したとき,実朝,御台所,政子は相次いで大江広元亭に入った。政子の意見により,実朝の兄頼家の娘を猶子としたこともあった。なお,御台所に祗候する侍には地頭職が与えられており,御家人層にとって主君の立場にあったことがわかる。承久1(1219)年,実朝が殺害され出家。京都に住み,本覚尼とも呼ばれた。同3年の承久の乱で後鳥羽上皇方にくみした兄坊門忠信の助命を政子に願い,許されている。また亡夫実朝の菩提を弔うため西八条邸内に遍照心院を建立,自ら置文を定めた。
引用:https://kotobank.jp/word/