広瀬すずさんが主役の佐野小鞠を演じるドラマ『エアガール』は、作家の中丸美繪さんによる『日本航空一期生』が原作。
主に、戦後初の国内線定期空路の第一便「もく星号」の出航をめぐる様子を史実をもとにドラマ化されています。
戦後初の国内線定期空路の第一便「もく星号」が羽田を飛び立ったのは1951年(昭和26年)10月25日のこと。
■日本航空一期生あらすじ
日本人が日本の空を取り戻した瞬間を活写
敗戦から6年、日本の空を取り戻すべく、ナショナルフラッグを誕生させた人々の苦難と喜びを、客室乗務員をはじめ、数少ない生存者の証言を中心に生き生きと描く、渾身のドキュメント。
1951年10月25日、羽田空港は朝もやに包まれていた。午前7時43分、国内線定期空路の第1便が1号滑走路にむけて、ゆっくりとタクシングをはじめた。東京から大阪を経由して福岡をめざす「もく星号」である。機体の両翼には鮮やかな赤い日の丸が描かれていた。そして、胴体には赤線二本と「日本航空」の文字がある。(本文より)
日本の空を取り戻せ!
敗戦後GHQによるさまざまな分野にわたる占領のなかで、日本の航空の自由を取り戻そうとナショナル・フラッグ・キャリアの創立に奮闘した人々の姿を、元日本航空のキャビン・アテンダントでもあった作家が熱い眼差しで描く、渾身のドキュメンタリー。
昭和26年10月25日、国内線定期空路の第一便「もく星号」が羽田を飛び立った。日本人が日本の空を取り戻した瞬間でもあった。
本書では創業期の第一期生として採用された数人を直接取材、そこで得られた貴重な証言を中心に、当時の情熱に燃えた仕事ぶりなどが活写されていく。
中でも白眉は「エアガール募集」の求人広告で第一期の客室乗務員となった小野悠子や金林政子へのインタビューを通し、女性の社会進出の第一歩となった彼女たちの思いを、数々のエピソードとともに深く優しくとらえている点だ。
他にも特攻隊の生き残りを、将来を見越して他の部署につかせて採用した後の社長松尾静麿の手腕も、時代を超えて学ぶべきことが多い。
60年以上も前の出来事ながら、会社設立という苦難と喜びは今も同じ。停滞する現代の組織のありかたを探るうえでも、なべて初心に帰るべき大きなヒントと指針がここにある。
佐野小鞠(エアガール)の実在モデルとなったCA(客室乗務員)は誰?
ドラマ「エアガール」の原作『日本航空一期生』を執筆した中丸美繪さんは、実際に日本航空の創業期の最初のCA(第一期生)に取材を行っているほか、中丸美繪さん自身も過去にJALのCAとして勤務経験があります。
中丸美繪さんが特に重点的に取材したとされるのが「エアガール募集」の求人広告をもとに集まってきたメンバーで、のちに第一期のCAとなった小野悠子さんや金林政子さんとのこと。
広瀬すず演じる佐野小鞠は、小野悠子さんか、金林政子さんという実在の人物がモデルとなっていることが想定されます。
「エアガール」はときにエアホステスと呼ばれ、やがてスチュワーデスという名で長らく呼ばれるようになりました。
「エアガール」1期生となった小野悠子さんは、父親が神戸で貿易商を営んでいたことから、幼い頃から海外を身近に感じていたとのこと。
学生時代には当時開講してまだ間もない英会話スクールで語学力を磨くと、CAとして働く前は外国人への通訳の仕事をしていた経歴の持ち主です。
ちなみに、「エアガール募集」の求人広告、JALのCA1期生の募集要項は次のようになっていました。
年齢:20~30歳
身長:158cm以上
体重45kg~52.5kg
その他:容姿端麗、英会話可能、東京在住
■中丸美繪プロフィール
読み方:なかまる よしえ
生年月日:1955年9月12日
年齢:65歳
出身地:茨城県下館市(現・筑西市)
出身高校:茨城県立下館第一高等学校
最終学歴:慶応義塾大学文学部
大学卒業後、日本航空の東京空港支店を経て国際線客室乗務員として5年ほど勤務した後、作家デビュー。
ドイツ・バイエルン州ヴュルツブルク大学ドイツ語専修コース修了。
1997年『嬉遊曲、鳴りやまず 斎藤秀雄の生涯』で第45回日本エッセイスト・クラブ賞、第9回ミュージック・ペンクラブ賞受賞。
2009年『オーケストラ、それは我なり 朝比奈隆四つの試練』で第26回織田作之助賞・大賞受賞。
『杉村春子 女優として女として』(文藝春秋)
『君に書かずにはいられない ひとりの女性に届いた400通の恋文』(白水社)
といった著作で知られています。
結婚もしていて夫は医師の山村隆(神経内科医/国立精神・神経医療研究センター 神経研究所 免疫研究部部長)。
佐野小鞠(エアガール)は日本初CAではない
客室乗務員の誕生: 「おもてなし」化する日本社会
ちなみに、佐野小鞠さんはあくまでも戦後初のエアガールであって、日本初のエアガールではありません。
日本で初めてエアガールが誕生したのは1931(昭和6)年3月のことで、名前は本山英子さん。
小泉逓信大臣(当時)の他、
小泉逓信大臣の娘・芳江さん、
北村兼子(飛行士訓練生・ジャーナリスト)
角屋秘書官
が乗客第一号となりました。(乗員2人に対して乗客4人)
ちなみに、戦前から戦後ののエアガールに継承された、今では信じられない業務の一つが、機体の重量バランスの管理。
雲の下を飛ぶために大きく揺れる小さな旅客機だったことから、それこそ墜落事故になりかねない重要な任務でした。
客室乗務員の業務内容を紹介した雑誌『丸』の1953年11月号の記事によれば、
出発直前に「その日の旅客の人数によって、ウェイティング・バランスがとれるよう、旅客の配置に注意しなければならない」ことが、エアガールにとって大事な仕事の一つだったそうです。
人数によって誰がどこの座席に座るのかをエアガールの指示に従うルールになっていました。
ただ、飛行中も機窓から富士山など名所が見えたとき、乗客が立ち上がって一方の窓に集まることもあったため、エアガールは常に注意を払わなければいけませんでした。
重量バランスが偏る度にパイロットからピーっと注意のベルがなり、飛行機が大型化して乗客が増えた戦後の客室では危険が増したことから、
戦後のエアガール一期生の小野悠子は「景色の案内も差し控えるようにしました」と回想しています。
ちなみに、日本の客室乗務員は、CA(シーエー)と呼ばれ客室乗務員を意味する「Cabin Attendant」の略称ですが、「CA」は日本でしか通用しない和製英語ようですね。
たとえば英語圏では「Flight Attendant」あるいは「Cabin Crew」と呼ぶのが一般的であり、その略称はFAやCCです。
佐野小鞠(エアガール)の時代背景
ドラマ『エアガール』では、第2次世界大戦の終戦直後から物語が始まります。
1945年当時の日本はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の占領下に置かれ、GHQ指導の下、様々な改革がトップダウンで行われていました。
農地解放や女性選挙権、財閥解体など様々な政策が実施されていく中、GHQは日本の航空産業にも厳しい規制を設けます。
太平洋戦争の当初、日本のゼロ戦を前になすすべもなく、甚大な被害を被っていたアメリカにとって、日本の飛行機開発はまさに「脅威」そのもの。
これまで通り航空機の研究・開発を続けさせていたら、またアメリカをはじめ世界を脅かすことになりかねない強い危機感をいだいていました。
そのために、日本に残っていた飛行機を吐き払うだけではなく、航空機の生産工場や設備を破壊。
ジブリ映画「風立ちぬ」のモデルとなった中島飛行機(自社での一貫生産を可能とする高い技術力を備え、第二次世界大戦終戦までは東洋最大、世界有数の航空機メーカー)も解体されました。
※解体後の中島飛行機は、現在の自動車メーカー「SUBARU」や工具メーカー「マキタ」、「富士重工業」などに継承されていきます。
GHQは、さらに第2時世界大戦中は、年間2万5千機もの航空機を生産・管理していた『運輸省航空局』も解体しし、徹底的に日本の航空産業をつぶしにかかりました。
現代の日本が航空機産業において世界でも大きく後れを取っているのも、この時のGHQによる厳しい規制が遺恨を残しているようです。
しかし、1950年になると『朝鮮戦争』勃発によりGHQによる日本の航空産業への規制がみなされていきます。
ソ連のバックアップを受ける北朝鮮側の猛攻により、劣勢を余儀なくされた韓国を支援するために、日本の優れた航空技術を朝鮮戦争の後方支援に使おうと画策します。
アメリカで軍用機を製造して朝鮮半島に送るよりも、軍用機の整備や補修を日本の企業に委託したほうが圧倒的に効率が良いからです。
GHQは民間企業での航空会社の設立を認め、戦後初となる日本の航空会社『日本航空株式会社(後のJAL)』が誕生。
日本人の乗員によるフライトは終戦から6年後の1951年10月25日に実施されました。