三法師(織田秀信)の生涯・清州会議のその後は?

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三法師こと織田秀信の障害は?

清州会議で豊臣秀吉に利用された三法師(織田秀信)のその後の人生はどうなったのでしょうか?

三法師の後見人のはずの羽柴秀吉が、織田家をないがしろにして天下人になつたのに、なぜ他の大名が非難しなかったのでしょうか?

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三法師(織田秀信)と清州会議

一般に広まっている清須会議は、信長・信忠亡き後の跡目を信雄と信孝が争っていたところに秀吉の推戴する三法師が擁立され、秀吉の思惑通りになった、逆に信孝を推した柴田勝家が悔しがる、という流れです。

ところが、このとき信雄と信孝が争ったのは「御名代」であって、織田家の家督ではありません(『金井文書』)。織田家の家督は信忠の嫡男である三法師が嗣ぐのが当然なので、三法師が幼少のうちの「御名代」を巡って、信雄と信孝が争ったわけです。

最終的に、二人が互いに譲らなかったため、「御名代」を決めることはせず、会議では宿老たちが三法師を支えることが決定されました。会議後、宿老たちは日付が付けられた文書を複数作成し、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興、秀吉の四人が署判を据えました。

つまり、柴田勝家や丹羽長秀、池田恒興も秀吉と同様に三法師の後見人であり、従来の通説のように秀吉だけが特権を振るっていたわけではありません。

その後の織田家はさまざまな対立が生じ、混乱が起こりました。
①秀吉が自分の領国である山城国の山崎に城を築いたことを勝家が「約束違反」と非難
②安土城に入城する予定だった三法師を、一時的に預かっていた信孝が手放そうとしなかった
③信雄と信孝がお互いの領国である美濃と尾張の境界をめぐって激しい争いを引き起こしていた
④秀吉も勝家に対し、「約束違反」であると抗議した(具体的な内容は不明)。

さらに、信孝に関しては、清須会議の後も宿老たちの合議制によって決着がついたにもかかわらず、彼自身が「継目安堵」と呼ばれる保証書を自らの印鑑とともに京都の寺社などに発給していました。この行為は宿老たち主導の織田家体制を無視するものとされ、結果的に秀吉たちによって排除される原因となりました。

尾下成敏氏は、こうした混乱の後、秀吉が丹羽長秀、池田恒興、堀秀政らと結び、清須会議で決められた三法師を放棄し、信雄と対立する信孝を新たな織田家の家督として立てるクーデターを行ったと主張しています。要するに、全てが秀吉の思惑通りに進んだわけではなく、秀吉が織田家を軽視したり、利益を得たりしていたわけでもありません。

また、織田家と敵対していた上杉景勝も、本能寺の変の翌年に早々に秀吉に使者を送り、起請文を交わしています(『歴代古案』)。これは、秀吉と景勝が柴田勝家を挟撃するという軍事行動を約束したものですが、このことからも、秀吉が織田家を軽視していたとは認識されていなかったことが分かります。

三法師(織田秀信)とは?

三法師は、1573年に織田信忠の嫡男として生まれました。母の徳寿院は、塩川長満の娘、森可成の娘、武田信玄の娘の松姫など、諸説があります。

1582年、本能寺の変が起こったとき、三法師は岐阜城にいました。しかし、信忠の死後、三法師は清洲城に移されました。その後、清洲会議で、羽柴秀吉により、織田家の跡目として推挙されました。柴田勝家は、織田信長の三男、信孝を推薦しましたが、勝家は敗れ、秀吉が勝利しました。

信孝が後見人となり、わずか3歳で家督を継承した三法師は、近江・坂田郡(現在の滋賀県米原市)に3万石の直轄領を要しました。代官には堀秀政が就任しました。その後、安土城に入る予定でしたが、後見人である信孝は、三法師を岐阜城から出そうとしません。そこに目を付けた秀吉は、岐阜城を包囲し攻撃しました。信孝は三法師を秀吉に開放し、自ら降伏しました。その後、織田信雄(織田信長の次男)を後見人とし、三法師は安土城の仮屋式に移りました。

織田家の当主に据えられた三法師は、1584年、秀吉と織田信雄が小牧長久手の戦いで対立すると、丹羽長秀の居城である坂本城に移され、その後は秀吉の元へ落ち着きました。しかし、同年11月、秀吉と信雄の和睦が成立し、小牧長久手の戦いが閉幕しました。秀吉は織田家の後継者を正式に信雄と決め、再び坂本城に戻されることになりました。

1588年、岐阜城に入城した三法師は9歳で元服し、名を三郎秀信と改名し、従四位下・侍従の位を与えられました。

1590年、小田原征伐では11歳で堀秀政の指揮下に置いて、鉄砲隊として左構えの大将として参加したとありますが、その辺りの確証ははっきりしていません。13歳の時、豊臣秀勝(秀吉の甥)が亡くなると、秀勝の居城であった岐阜城を譲りうけ、13万石を加増され、城持ち大名となりました。

三法師(織田秀信)の生涯・清州会議のその後は?

1605年、三法師は22歳で死去しました。その死因は、疱瘡や脳卒中など諸説がありますが三法師は、1593年の文禄の役に出兵する予定ではありませんでした。

しかし、前岐阜城主の豊臣秀勝が済州島で病死したため、三法師の家老であるどど綱家が秀勝率いる8,000人の兵を引き継ぎ、三法師も急遽渡航することになりました。

朝鮮出兵では、慣れない土地での生活に耐えきれず体調を崩す武将も多く、多くの死者が出ました。しかし、三法師は難を逃れて無事帰国することができました。

帰国後、三法師は従三位・岐阜中納言に昇進し、和田孫太夫の娘を正室に迎えました。また、鏡島湊(長良川の船運湊)を建設したり、祖父・信長が行っていた鵜飼いの保護活動にも携わりました。

まとめ:三法師(織田秀信)の生涯・清州会議のその後は?

三法師は、織田信長の孫で、織田信忠の嫡男です。本能寺の変で父が亡くなった後、清洲会議で織田家の後継者に選ばれましたが、幼少のため、秀吉や信雄らに後見されました。小田原征伐にも参加し、13歳で城持ち大名となった人物です。

清須会議は、1582年6月に、織田信長が本能寺の変で亡くなった後、その跡を継ぐ者を決めるために行われた会議です。会議には、織田信長の重臣である柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽長秀、池田恒興らが出席しました。

会議では、織田信長の次男である織田信忠の嫡男である三法師を後継者にすることが決まりました。しかし、三法師はまだ幼かったため、勝家、秀吉、長秀、恒興の四人が三法師の後見人となりました。

その後、勝家と秀吉は、三法師の後見人として対立するようになり、1583年6月に賤ヶ岳の戦いが起こりました。この戦いで勝家は敗れ、秀吉が勝利しました。秀吉はその後、天下統一を成し遂げ、豊臣政権を開きました。

三法師は清洲会議の結果、三万石を割り振られ織田家家督者となります。

そして安土に移って代官は堀秀政が勤めるはずであったのを、織田信孝が手放さず岐阜城下に留め置かれてこれが一連の秀吉と柴田勝家・織田信孝らとの戦いの発端となります。
この戦いはご存知のように羽柴秀吉が勝利。
三法師は予定通り安土に移りましたが、やがて丹羽長秀の近江坂本城に移って成長しました。
ところがまもなく丹羽長秀も亡くなってしまいましたので、9歳の時、秀吉によって岐阜城に移って元服し秀信を名乗ります。
1592年に岐阜城主であった豊臣秀勝(秀吉の甥)が亡くなると、岐阜城と美濃国の一部13万石を与えられて正式に大名となります。
その後順調に豊臣大名として生活していた秀信でしたが、1600年関が原の戦いの際、石田三成から誘いをうけると真っ先にこれに呼応し西軍に属したので、美濃の中小大名はこぞって西軍に付く事となります。
本拠地が岐阜という要地であったことから真っ先に東軍の標的とされて、関が原に先駆けて大挙攻められて岐阜城は落城し、秀信は降伏を余儀なくされます。
この時、死罪も検討されたものの、福島正則が必死の助命嘆願を行ったので赦され、高野山に追放され1605年に若くして死去しました。
尚、美濃の中小大名の半分は岐阜落城を見て東軍に鞍替えしてしまっています。

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