種田山頭火の「分け入っても分け入っても青い山」の意味は?
種田山頭火の短歌の代表作「分け入っても分け入っても青い山」の訳、季語、切れ字、使われている用法は?
分け入っても分け入っても青い山(種田山頭火)意味は?
種田山頭火の短歌「分け入っても分け入っても青い山」は、山の中を歩いても歩いても、いつまでも青い山が続く様子を表現した短歌です。この短歌は、山の自然の美しさや雄大さを表現しているだけでなく、人生の旅路を象徴しているとも言われています。人生は、山道を歩くように、困難や苦難に直面することもあります。しかし、そんな時でも、分け入っても分け入っても、いつまでも青い山が続くように、人生には希望や明るい未来が待っているということを、この短歌は教えてくれます。
この短歌は、種田山頭火さんが自然の美しさや山の魅力を感じた思いを表現したものです。自然を大切にし、山や自然の中で冒険することは、私たちにとっても素晴らしい経験や感動を与えてくれることを伝えています。
種田山頭火とは?
種田山頭火は、1882年12月3日に山口県佐波郡(現在の防府市)で生まれました。本名は正一です。1904年に早稲田大学を中退し、俳句を始めました。1925年に熊本市の曹洞宗報恩寺で出家得度し、耕畝と改名しました。その後、各地を放浪しながら俳句を詠み続けました。1940年10月11日に愛媛県松山市で亡くなりました。
山頭火は、自由律俳句の俳人として知られています。自由律俳句とは、五七五の定型に縛られない俳句です。山頭火の俳句は、自然の美しさや人々の生活を、素朴で力強く表現しています。また、山頭火の俳句は、人生の旅路や希望を、誰にでもわかりやすく表現しています。
山頭火の代表的な句には、次のようなものがあります。
分け入っても分け入っても青い山
行く春や裸木の枝に雪殘りけり
ふるさとは遠きにありて思ふもの
今日は一日一句一行
山頭火の俳句は、今なお多くの人々に愛されています。
分け入っても分け入っても青い山(種田山頭火)意味は?
種田山頭火の「分け入っても分け入っても青い山」は短歌ではなく俳句、しかも季語や定型にとらわれない無季俳句・自由律俳句といわれるものです。
しいて季語を指摘するなら「青い山(夏)」「しぐれ(冬)」でしょうか。
季節は夏。湿度が高い真昼間。蝉の声なんかも聞こえているかもしれません。
表現技法は「反復法」以外に「体言止め」も使われています。
山頭火は修行の旅の途中にあります。
「進んでも進んでもまだ青い山が続いていく」。それは平坦な道ではありません、緑の中に分け入って進む道なのです。
何を求めているのでしょうか、一生懸命進んでもそれは見つからない。しかし山頭火はまだまだ歩みを止めないのです。
この道は、ゆけどもゆけども果てしなく、青い山がどこまでも続く道だが、考えてみれば、世の道、人の道、そして私が歩んでいる発句の道にしてからが、果てしのない青い山がどこまでも続く道だなあ。