澤田智洋さんは「マイノリティデザイン」や「世界ゆるスポーツ協会」などに携わるコピーライター。
息子の病気・生涯を機に活動内容ががらりと変わった澤田智洋さんの気になるプロフィールをまとめています。
澤田智洋の世界ゆるスポーツ協会とは?
澤田智洋さんの考案した「世界ゆるスポーツ」とは障害の有無、年齢、性別にかかわらず誰もが楽しめるスポーツ。
澤田智洋さん自身も運動音痴だったこともあり「運動音痴という視点を使ってスポーツを発明したらどうなるんだろう?」という発想から生まれました。
スポーツ弱者を世界からなくすという目的のもと「世界ゆるスポーツ協会」を立ち上げると代表に就任。
年齢・性別・運動神経・障害の有無に関わらず、だれもが楽しめる新スポーツをすでに20万人以上がゆるスポーツを体験しているそうです。
具体的に「世界ゆるスポーツ」にはどんなものがあるのかというと、
激しく動かすと大声で泣きだすためやさしくボールを運べる人が有利なバスケットボール「ベビーバスケ」
ほふく前進でラグビーをして歩けない人ほど強くなる「イモムシラグビー」
コロナ禍ではZoomを使って表情筋を鍛えられる「ARゆるスポーツ」の開発にも取り組み、障害のある1人のために服を作る「041(オールフォーワン)」プロジェクトなども立案しています。
他にもひとり500歩しか動けない「500歩サッカー」は本当はスポーツをやってみたい心臓病の少年のために考案したゆるスポーツ。
「こまめに休まなきゃいけないから体育は見学してなさい」と言われて、一度もみんなとスポーツをしたことがなかったことから、体力に自信がある人との差をなくせるスポーツとして誕生しました。
他にも、以前に当ブログで紹介をしたブラックホール卓球もゆるスポーツの一つです。
澤田智洋wikiプロフィール
名前:澤田智洋
出身地:東京都
出身高校:New Trier High School(ニュー・トライヤー高校)
最終学歴:慶應義塾大学経済学部
職業:コピーライター、世界ゆるスポーツ協会代表理事
澤田智洋さんの生まれは東京ですが親の仕事の関係で生後3か月にはフランスへ引っ越しています。
それから1歳から7歳までロンドンで暮らして帰国すると、小学4年生まで日本の小学校に通っていますが、小学校5年生からは再度フランスへ。
アメリカ・シカゴへの引っ越しを経て17歳で帰国しています。
澤田智洋の経歴
澤田智洋さんは大学卒業後の2004年、広告代理店・電通に入社すると、映画「ダークナイト・ライジング」、高知県など、数々のビッグプロジェクトでコピーを手掛ける売れっ子コピーライターとなります。
コピーライターとして順風満帆だった澤田智洋さんですが、障害を持った息子が誕生したことをきっかけに、マイノリティに寄り添う活動に力を入れるようになります。
だれもが楽しめる新しいスポーツを開発する「世界ゆるスポーツ協会」を2015年に設立。
また、一般社団法人「障害攻略課」理事の就任し、「041 FASHION」プロジェクトや、ボディシェアリングロボット「NIN_NIN」など、福祉領域におけるビジネスを手掛けるようになります。
ライターは片手が使えない人から生まれた、極限までシンプルなインターフェースのiphoneはADHDでせっかちなスティーブ・ジョブズだからこそ誕生した。。。
こうしたエピソードを踏まえて、すべての人の中にある「弱さ」「苦手」「できないこと」といったマイノリティ性にこそ、社会を良くするアイデアが潜んでいて「思いもよらなかったいい未来」が待っていることに気が付いたそうです。
澤田智洋さんは「マイノリティデザイン」というマイノリティを起点に、世界をより良い場所にすることを自分の人生のコンセプトにすることを決め、さまざまな活動を手掛けるようになりました。
澤田智洋のツイッターやインスタグラム
澤田智洋のツイッター
@sawadayuru
澤田智洋のインスタグラム
澤田智洋のフェイスブック
@tomohiro.sawada.355
澤田智洋の高校や大学など学歴は?
澤田智洋さんの通っていた高校はアメリカにNew Trier High School(ニュー・トライヤー高校)です。
ちなみに2度目のフランス滞在中、最初の1年間は日本人学校に通っていたものの、英語習得を目的にパリのイギリス人学校に転校します。
ところが、あまりにも英語が話せなさすぎて、まるで友達ができないどころか、周囲から煙たがられるという地獄のような学校生活を経験しています。
その後、学校も変わり中学3年生の時にはギターを買って「L’Arc~en~Ciel」のカバーをするコピーバンドを結成
ただ、すぐに飽きてしまいギターを始めて3ヶ月でオリジナルの曲を作り始めると、高校生では知り合いのレーベルからデビューするまでに。
音楽を通じて友人もでき、高校時代は結構楽しかったと話しています。
最終学歴は慶應義塾大学経済学部を卒業しています。
澤田智洋の結婚した嫁は?
澤田智洋の結婚した嫁については、結婚した時期はおろか、嫁の名前や年齢なども明らかになっていません。
ちなみに、澤田智洋さんが幼少期から海外を転々とするきっかけとなった父親ですが、なんと中学二年生のときに心筋梗塞で、ある日突然、亡くなってしまったそうです。
高校生になってすぐ、今度は母が倒れると大動脈解離の手術をすることになると、手術の後遺症で、母は歩けないからだとなります。
高齢の祖母と四歳下のダウン症の弟という家族構成となっていました。
澤田智洋の息子は視覚障害(全盲)
澤田智洋さんは、2013年1月に第一子が誕生しています。
生後すぐの検査では元気な男の子で、他の子供と同じように退院もするものの、3カ月ほど経った頃、目が充血するようになりなんとなく目線も違和感を感じるように。
嫁が「念のためお医者さんに診てもらおう」と、近くの眼科へ息子を連れていったところ、大きな病院で診察を受けるようにいあwれ、子供が後まもなく先天性の視覚障害のため目が見えないことが発覚します。
左目は「網膜異形成」、右目は「網膜ひだ」で緑内障と白内障も併発。
緑内障と白内障が進行すると、めまいや吐き気といった症状が出る可能性があるため、手術をすることになりました。生後半年にも満たない体で5月に一度、7月にもう一度。
息子の目は見えないことがわかり、澤田智洋さんはコピーライターとしては致命的ともいえる「おもしろい」感覚がまるで失われる状態に陥ります。
しかし、息子の障害に寄り添うためにマイノリティについて勉強をして、実際に様々な障がい者と話していくうちに、これまでまったく聞いたことのなかった「面白い」話がどんどん飛び出してくるという発見がありました。
彼らの暮らしや生き方そのものが、発見に満ちている。困難の乗り越え方、自分との付き合い方、人生の捉え方、幸せや豊かさの定義。
そんな話をたくさん聞いているうちに、「弱さ」を生かさないことのほうがもったいないなと思うようになって現在の澤田智洋さんの活動につながっていきます。
一時は深い絶望に襲われ、仕事も手につかなくなったが、澤田智洋さんですが、日本ブラインドサッカー協会によるアイマスクを装着して行う「視覚障害者サッカー」では「見えない。そんだけ。」という画期的なコピーも生み出しています。