NHK朝ドラ「スカーレット」で、主役の川原喜美子(戸田恵梨香)は荒木荘で暮らすことになります。
この荒木荘の女オーナーが荒木さだ(羽野晶紀)という人物で、川原喜美子の遠い親戚に当たり、
女性用の下着会社「荒木商事」の社長をつとめる人でもありますが、荒木さだには実在モデルがいると考えられます。
スカーレットの荒木さだ(荒木商事)実在モデルは誰?
スカーレットで荒木さだが初登場した時には「下着ショー」の企画の真っ最中でしたが、
日本の戦後の歴史を振り返ると確かに下着ショーが開催されてニュースになったことがありました。
下着ショーは鴨居羊子という人物が創業した「チェニック制作室」という会社の手によって行われていたので、
荒木さだの実在モデルは鴨居羊子ではないかと思われます。
鴨居羊子は読売新聞のファッション担当記者として大阪で働いていたものの、初めての人に会うことが苦痛だったり、
サラリーマン化した新聞記者という働き方に嫌気がさして退職するものの、
行き当たりばったりの判断ではなくすでに事業の芽を見つけていました。
東洋レーヨン(東レ)について取材していたときに新素材(化学繊維のナイロン)に注目していて、
当時はブラジャーが普及しておらず下着の色も「白」一色のみ。
女性用の下着といえばコルセットにズロースという感じだったことから、
鴨居羊子退職金の3万円をはたいて東洋レーションの新素材を購入し女性用下着の制作に着手します。
ただ商売がいきなり上手くいかわけもなく、資金繰りは苦しかったようで、
新聞記者時代に知り合った
- 産経新聞の司馬遼太郎
- 毎日新聞の山崎豊子
といった面々にカンパ(資金援助)してもらうことで何とか、
大阪の「そごう」デパートで下着の個展「W・アンダーウエア展」を開催にこぎつけます。
時代は昭和30年12月のことなので、川原喜美子がちょうど中学卒業をする時期とほぼ一致します。
鴨居羊子は下着ショーの翌年の昭和31年に「チェニック制作室」を立ち上げて
女性用下着「ガーターベルト」の制作に着手します。
そして、翌年の昭和31年に1坪(2畳)の部屋を借りて事務所として、「チェニック制作室」を創業した。
ただ下着ショーの開催は鴨居羊子が日本初というわけではなく、
男子禁制として女性に下着の機能を説明したり、下着の付け方を教える「教室」として存在していたようです。
鴨居羊子が革新的だったのは、閉ざされた空間で下着ショーを行うのではなく、
その後の昭和32年5月には、大勢の人に見てもらうため、鴨大阪南の映画館「スバル座」で、
大阪で流行していた「ヌード喫茶」のショーをヒントに映画のアトラクションとして下着ショーを開催したこと。
現在のファッションショーのような下着ショーで、飾りっ気のなかった女性用下着に、
- 生地面積の小さい「スキャンティー」
- 色とりどりの「パンティー」
などの当時としてはド派手なファッションを持たせた製品を発表したことによって、
「暮しの手帖」の編集長、花森安治から「婦人を娼婦にする気か」と猛烈な批判を受けたり、
30歳以上の女性からは総スカンを食らうなど激しく批判されるものの、
新進気鋭の下着デザイナーとして雑誌「中央公論」で「下着ぶんか論」も発表するといった活動も見せています。
鴨居羊子は逆風吹き荒れる中、「安かろう悪かろう」のイメージから脱却するべく、
石津商店(ヴァンヂャケット)の石津謙介の紹介で、同年5月に阪急百貨店へと進出し、
高級路線を突き進むようになります。
鴨居羊子の下着は順調に売り上げを伸ばすものの、
ワコールなどの大手に押されて次第に経営が悪化。
追いうちをかけるように親族に不幸が続いたり、
恋人が実は結婚していて不倫だったことが判明したり、
自身も病気で入院するなど、晩年は苦悩の連続だったようです。
ちなみに、荒木さだ(羽野晶紀)は自身がオーナーである荒木荘で、
川原喜美(戸田恵梨香)を女中として迎え入れるという設定になっていますが、
どうやらこれはスカーレットの創作のようです。
荒木荘は実際には存在しないようです。