映画「タイタニック」はどこまでが実話でどこからがフィクションなんでしょうか?
ジャックとローズは実在した?
タイタニック(映画)どこまで実話?ジャックとローズは実在?
ローズとジャックと絵とネックレスはフィクションです。
因みにあの絵は、この映画を作った監督さんが自ら描いたものです。
ローズ(婚約者や母親なども)とジャック以外の、エピソードや人物の多くは本当です。
タイタニック号の細かいデータ、事故についての数々の記録、生き残った人達の証言などから、映画「タイタニック」はできるだけ本当の事を描くようにしました。
船長さんが沈没直前まで操舵室にいるのを見た、という複数の証言があるので、亡くなった場所も本当のようです。
船を設計した人の亡くなった場所は、キャメロン監督の創作も入ってると思いますが、暖炉の前にいた、という証言記録もあるようです。少なくともヒゲの社長さんと違って、自分の責任を深く感じて脱出する気は全くなかったようです。映画の通りです。
ヒゲの社長さんが言った事は本当です。
また、どさくさに紛れて救命艇に乗り込み助かったのも本当です。
責任の度合いからも、自分のせいで救命艇が人数分なかったことからも、逃げてはいけない立場の人だったのに助かり、事故後大変非難されました。
ベッドで寄り老夫婦も本当です。
タイタニックの事故の有名なエピソードの一つです。
老夫婦はアメリカの有名デパート、メイシーズのオーナーのシュトラウス夫妻です。有名な名士でした。
夫婦で救命艇に乗るよう勧められたのですが、夫が紳士らしく、「女性や子供を差し置いて私が乗るわけにはいかない」と断り、
妻も、「夫を残して私だけ乗る事はできない」と断り、
2人で船に残る事を選びました。
最後まで演奏したバンドも本当です。
タイタニックで犠牲になった方達の中で一番有名なエピソードではないかと思います。
最後は正装で、といったおじさんも本当です。
ベンジャミン・グッゲンハイムという人で、鉱山やその他の事業で大成功した財閥の一員です。
救命艇が十分な数がないと知ると救命具を脱ぎ捨て正装し、船に残る決意をしました。ブランデーなども、生存者の証言にあります。
グッゲンハイムは生き残った客室係にこんなメッセージを残しました。
「女性・子供分のボートしかないのなら、私は男らしく残ろうと思う。獣のように死ぬつもりはない。ジョンソン。もし私も秘書も死んで君が助かったら、妻に最期まで立派だったと伝えてほしい。ベン・グッゲンハイムが臆病なために船に残される女性があってはならない」
三等が締め出されていたのは大体本当です。
ただ、船員も人間ですので、厳密に締め出されていたわけでもないみたいです。
椅子のエピソードは、そんな事もあったのではないかという創作じゃないかと思います。充分あり得たとは思います。
あと、ジャックに服を貸してあげたり、味方してくれたモリー・ブラウンも本当で、映画で描かれた彼女の数々のエピソードも生存者の証言や本人の話を元にしています。
タイタニック沈没の場所はどこ?
タイタニックが沈没したのは、4月15日午前2時20分。沈没場所は、カナダ北東部ニューファンドランド島沖の大西洋。海洋性気候ですが、寒流のラブラドル海流が島の東岸を南下したあと南岸を西へ流れている為、気温は低めで、4月でもタイタニック乗員が投げ出された海は海水温度が零下2度くらいでした。
因みに映画『タイタニック』は、完璧主義者ジェームズ・キャメロンにより、沈没シーンはほぼ完璧に再現されました。
まとめ:タイタニック(映画)どこまで実話?沈没の場所はどこ?ジャックとローズは実在?
ジャックとローズの恋物語はフィクションです。ローズがおばあさんになって、宝石を海に捨てるのもフィクションです。
しかし、それ以外は生存者の証言を元に、事実に基づいて細部まで克明に再現されていますよ。
オープニングに登場する沈没船のシーンはセットではなく、今なお海底に沈む本物のタイタニック号を撮影したものです。
船長が船と共に運命を共にしたのも、パニックになる乗客たちを落ち着かせるために音楽家たちが最期の時まで演奏を続けたのも(彼らも船と運命を共にしました)、
船員がピストルを発射してしまったのも、まさか沈没するまいと思われていたため少ししか救命ボートを積んでいなかったために僅かな人しか助けられなかったのも、
3等の乗客がほとんど助からなかったのも、死を覚悟した老夫婦が部屋に戻りベッドに身を横たえたのも、船が沈む時に縦になって沈んだのも、みんなみんな事実です。
豪華な階段と天使の像がたびたび登場しますが、船の内部の装飾も全く忠実に再現されています。
■タイタニック号の沈没事故までの時系列
1845年 ホワイトスター社設立
1864年4月4日 ロイヤル・スタンダード号、氷山に衝突。ひどい損傷を受けたが、何とか自力で港にたどり着く。
1873年3月20日 アトランティック号が悪天候のため座礁。船は沈没。1000名のうち、546名が死亡。
1893年 ナローニック号が行方不明になる。
1899年 ジャーマニック号沈没。
1907年 スエヴィック号座礁。
1909年 リパブリック号が他船と衝突、沈没。この事故では当時一般的で無かった無線が活躍し、救助も早く、死亡は数名にとどまった。
1911年6月21日 タイタニック号の姉妹船でほぼ同じ設計のオリンピック号が一足先に処女航海に出たが、いきなり、タグボートのハーレンベック号を巻き込み、沈没させかけた。この時の船長は、あのエドワード・J・スミス船長である。
1911年9月20日 サウサンプトン湾で、オリンピック号は巡洋艦ホークと衝突。オリンピック号はひどい損傷を受け、11月末まで正常航行は不可能となった。この時もスミス船長である。
1912年2月24日 復帰間も無いオリンピック号は、海上の障害物と衝突。スクリューの一つが脱落してしまった。この時点でオリンピック号は処女航海からの不祥事続きで無保険状態になってしまっていた。
1912年2月26日 オリンピック号の乗客の一人が海に転落して行方不明となる。
1912年4月10日 タイタニック号、サウサンプトン港から2208名の乗客、乗組員を乗せ処女航海に出る。この時、あまりに大きいタイタニック号の余波を受けて、そばにいたニューヨーク号やテュートニック号が一時的に操舵不能となり、タイタニック号に衝突しかけている。
1912年4月14日~15日 14日午後11時40分、それまでに数回にわたって他船から氷山の警告を受けながらも無視するように高速で航行する中、氷山と衝突。翌15日午前2時20分頃、タイタニック号は完全に沈没。船長はJ・スミス船長。
■ タイタニック号が受信した氷山に関する警告のリスト
スミス船長に確実に伝わった情報は最初の2件だけのようです。
1. 午前9時 キャロニア号(キューナード社) スミス船長自ら返答。
2. 午後1時42分 バルティック号 このメッセージはイズメイ氏(※1)に渡されたが、船長が午後7時15分に返すように言うまでイズメイ氏が持ったままになっており、それで船員に知れるのが大幅に遅れている。
3. 午後1時45分 アメリカ号(ドイツの定期船) タイタニック号は、ワシントンDC米国海軍水路局経由で夕方、この情報を受信した。しかし、この情報はブリッジには届けられなかった。
4. 午後7時30分 カリフォルニアン号(※2) アンティリアン号宛の氷山警告のメッセージをタイタニック号は傍受した。このメッセージは確実にブリッジに届いたかどうかは不明。
5. 午後9時40分 メサバ号 タイタニック号に向けて氷山の警告。この船が示してきた場所はまさしくタイタニック号の航路と重なるものであった。このメッセージも確実にブリッジに届いたかどうかは不明(※3)。
6. 午後10時30分 ラッパハノック号 この船自身が氷のため船の操舵機を損傷。タイタニック号に信号灯で警告してきた。タイタニック号はこの警告に同じく信号灯で返礼している。
7. 午後10時55分 カリフォルニアン号 タイタニック号に向けて氷山の警告あり。しかし、タイタニック号の通信士はこの時、レース岬との交信中で、カリフォルニアン号の警告を「うるさい。黙れ。」と返答している。このやりとりもブリッジには伝えられなかった。
※1・・・イズメイ氏
タイタニック号の船主。スクリーンでも登場していました。スミス船長にスピードを出せとうるさくせまっていた人物です。この人物は船主でありながら、比較的早い段階で救命ボートで脱出しているため、生還後も死ぬまで世間の非難を受ける生涯を送ったそうです。
※2・・・カリフォルニアン号
タイタニック号が氷山衝突後、SOSを送信した時、最も近くにいたのは、実際に救助に来たカルパチア号ではなく、カリフォルニアン号でした。この事実については、またこのコーナーの続編で詳しく書きます。
※3・・・メサバ号からの警告(二等航海士ライトラーの証言)
二等航海士ライトラーは生還し、1935年に出版された『タイタニック号とその他の船舶』という本の中で、このメサバ号からの警告をタイタニック号の通信士が、他の通信業務に忙殺され、ブリッジに報告する事を大幅に遅延させたのが、氷山衝突の最大の原因だと証言しています。
タイタニック(映画)実話|甲板でコマを回すダグラス少年
ダグラス・スペイドン少年は1905年生まれで、生家はアメリカのタキシード・パークにあります。ここは、アメリカの貴族がかつて多く住んでいた所。ダグラス少年の家は今でも残っています。
スペイドン家の遠縁にあたる、レイトマン・コールマン四世が、1988年、屋根裏部屋で埃のかぶった祖母のトランクを見つけました。そのトランクの中には、ダグラス少年の成長が記された一冊の本があったのです。コールマン氏の祖母とダグラス少年の母は、いとこ同士だったので、その遺品を大事に保管していたのでした。
ダグラス少年の成長が記されたその本は、母親デイジーの手製の絵本でタイトルは『マイ・ストーリー』。タイタニック沈没翌年1913年のクリスマスに贈られた事になっています。表紙には、ダグラス少年が大切にしていた、クマのぬいぐるみ<ポーラー>の絵があります。絵本の主人公はダグラス少年で、クマの<ポーラー>が語り手という設定になっていました。
【最初の数日間は、よく晴れていました。ぼくたちは、ほとんどの時間を甲板で過ごしました。ダグラスは、よくコマ回しをして遊んでいました。それはシェルブール港を出て、5日目の夜のことでした。大急ぎでダグラスに服を着せた後、奥様は、小さな網棚に居たボクを手に取ると、ダグラスにまかせました。必死に甲板に急ぎました。タイタニック号が氷山にぶつかり、沈みそうだったのです。】
ダグラス少年と両親の3人は、運良く救命ボート3号に乗り込みました。ダグラス少年はボートの上で母親に抱きしめられて眠りました。ダグラス少年は<ポーラー>を抱きしめていました。カルパチア号が到着する頃、目を覚ましたダグラス少年は、あたりの海上を見て、「まるでサンタクロースのいない北極みたいだ。」と言ったそうです。この少年の無邪気な言葉に周囲の大人達は、なぐさめられたと言います。
しかし、カルパチア号に救助されるとき、ダグラス少年は、大事な<ポーラー>をボートの上に落としてしまい、離れ離れになってしまいました。ダグラス少年は、カルパチア号上で打ちひしがれていました。
【ボクを良く知っているタイタニック号の人が、ボクを拾い上げて、ダグラスのところまで届けてくれました。「ポーラー!」懐かしい声がしたかと思うと、ダグラスは、ボクを抱きしめてくれました。】
しかし、ダグラス少年の身の上に起こった悲劇は、ここで終わったわけではなかったのです。タイタニック号沈没の3年後、ダグラス少年は、アメリカで初めてだと言われる自動車の交通事故で亡くなったのでした。9歳でした。タイタニック号、そして自動車と、文明の利器に左右された短い人生でした。
【ダグラスがこの世を去ってから、ダグラスのお父さんはプールで水死。後を追うようにお母さんも。それからずっとボクは一人ぼっちです。】
この、『マイ・ストーリー』という絵本は、翻訳本が発売されています。『ポ-ラ- タイタニック号にのったぬいぐるみのクマのお話』というタイトルです。
タイタニック(映画)実話|音楽隊
タイタニック号には8人のバンドメンバーが雇われていました。彼らは2等船客扱いとして乗船していました。
バンドは2つに分かれていたようです。一つはトリオで、”ア・ラ・カルテ”というレセプション・ルームで演奏してました(バイオリン:ジョージ・クリンズ、チェロ:ロジャー・ブリコックス、もう一人は不明)。そしてもう一つのバンドは、バンドマスターのウォレス・ハートリーが率いてました。航海の間、彼らは、様々な地方のラグタイムやポピュラー・ソングで乗客達を楽しませました。時には、ファースト・クラスのラウンジやファースト・クラスのエントランスとなるデッキ傍で演奏することもありました。
沈み行くタイタニック号の船上でバンドが演奏を続けた事は事実で今や伝説のようになっています。しかし、惨事の夜何が演奏されたのか、その曲目は定かではありません。おそらく、なにがしかの軽快な曲を演奏したと思われます。けれども、いくつかの証言によると、ある時点から、”Nearer My God to Thee” あるいは “Autumn” のような、悲しい曲調の賛美歌を彼らは演奏したようです。
バンドメンバー:
Hartley, Mr Wallace Henry (バンドマスター)
Brailey, Mr W. Theodore (ピアニスト)
Bricoux, Mr Roger (チェリスト)
Clarke, Mr John Frederick Preston (ベース・バイオリニスト)
Hume, Mr John Law (ファースト・バイオリニスト)
Krins, Mr Georges (バイオリニスト)
Taylor, Mr Percy Cornelius (チェリスト)
Woodward, Mr John Wesley (チェリスト)
ウォレス・ハートリー氏について:
彼は、バイオリニストで、タイタニック号の前は、モルタニア号(キューナード汽船)に乗船していました(キューナード社は、ホワイトスターライン社のライバル会社。ちなみにタイタニック号の救助に駆けつけたカルパシア号もキューナード社)。タイタニック号乗船前の1週間は、婚約者と共に過ごしたようです。
タイタニック号の惨事の後の1912年5月4日、彼の遺体は発見され、ホワイト・スター社のアラビック号でハリファックスからリヴァプールに到着しました。ハートリー氏の遺体は霊柩車で故郷コーン(ランカシャー)に運ばれ、大勢の参列者が見守る中、埋葬されました。
タイタニック(映画)実話|ルノー(ジャックとローズが結ばれた車)
ジャックとローズがついに結ばれたのは、貨物室の高級車の中でした。その車の名は、新型25馬力『ルノー』。
この車は実際にタイタニック号で運ばれていたもので、持ち主もわかっています。その人物は、ウィリアム・アーネスト・カーター。当時36歳でシェルブールから、妻(ルーシー)、娘(ポルク)、息子(ソーントン)、そして2人の従者、2匹の犬と供にタイタニック号に乗船しました。その時一緒に貨物室で輸送しようとしたのが、『ルノー』です。
カーター氏は、14日の夜は、レストラン・ア・ラ・カルトで、スミス船長を招いた夕食会に出席していました。氷山衝突後、妻と子供たちは、4号ボートに乗船しました。この時、4号ボートを指揮していた、二等スチュワードのジョージ・ドッドは、「もう少年だろうと男はダメだ。」と言ったため、当時11歳だった息子のソーントンは、ボートに乗せてもらえませんでした。そこで母のルーシーは、とっさの機転で、大きな夫人用の高級ハットを息子の頭にかぶせ、少年だとわからないようにして、4号ボートにようやく乗り込む事ができたのです。
一方、カーター氏は、C号ボートに乗り込む事ができました。C号ボートと言えば、比較的男性の乗船に対しても寛容だった、マードック一等航海士が乗船を指揮していたボートです。このC号ボートへは、映画でも描かれていましたように、ホワイトスターライン社のイズメイ社長も乗り込んでいます。
カルパチア号に救助された後、カーター氏とその家族は再会を果たす事ができました。そして後にカーター氏は、『ルノー』の賠償金として5000ドルと、犬2匹分300ドルを請求しています。