タイタニック号は当時、世界最大級の豪華客船とされイギリスを出港しニューヨークへと向かう処女航海に出発。
ところが巨大な氷山とぶつかり3時間とかからずに沈没し、死者1500名を超える海難史上例をみない大惨事となりました。
タイタニックの日本人生存者は細野正文!
名前:細野正文(ほその まさぶみ)
出身地:新潟県中頸城郡保倉村(現・上越市)
生年月日:1870年11月8日(明治3年10月15日)
享年:68歳(没年月日:1939年3月14日)
明治期の鉄道官僚で、ミュージシャンの細野晴臣は孫に当たります。
1896年 – 東京高等商業学校(現・一橋大学)本科卒。三菱合資会社入社。
1897年 – 同社を退社し逓信省入省、新橋駅(後の汐留駅)貨物係になる。
1906年 – 東京外語学校(現・東京外国語大学)ロシア語科修了。
1907年 – 帝国鉄道庁経理部調査課主事になる。
1908年 – 鉄道院主事になる。
1912年 – 鉄道院在外研究員としてタイタニック号に乗船。
1913年 – 鉄道院主事を免官。嘱託となる。
1925年 – 鉄道事務官退官。その後、岩倉鉄道学校(現・岩倉高等学校)で勤務
細野正文さんは鉄道院副参事(おおよそ現在の国土交通省大臣官房技術参事官に相当)を務めていた1912年、
第1回鉄道院在外研究員としてのロシア・サンクトペテルブルク留学の帰路でタイタニック号に日本人ではただ1人乗船していました。
細野正文(タイタニックの日本人生存者)の生還の様子
細野正文さんはもっとも死亡率が高かった二等船室にいたものの、10号ボートに乗って生還を果たしています。
4隻の救命ボートが船から1メートルほど下ろされている最中、最後の1隻が下ろされているとき「あと1人か2人分のスペースがある」と言うのを聞いて間髪入れずに船に飛び込んだとされています。
救命ボートがタイタニックから離れるにつれて、タイタニックの全貌を目の当たりにし、やがて自分が立っていた甲板が海に飲み込まれ、数分後には雷のような爆発音とともにタイタニックは消えていく姿も目撃しています。
細野正文はその後の手記で
「残った救命艇の数がどんどん減っていく中で、日本人として恥ずかしいものを残してはいけないと心に決めていた」
「焦らずに最後の瞬間に備えようとしたが、それでも生き残れる可能性を探して待っていた」「それでも私は生き延びるための可能性のあるチャンスを探して待っていた」
と綴っています。
4隻の救命ボートだけでは、タイタニック号の乗客全員を乗せることができないことから、混乱を避け秩序を保つために一人の将校が拳銃を片手に指揮を執っていたそうです。
最初に降ろされたボートは女性と子供でいっぱいで2番目と3番目のボートも女性と子供でいっぱいに乗せ漕ぎ出してました。
残っていた一隻の救命ボートも女性と子供を満載していて、今まさに船が下ろされようとしていたとき、多くの乗客が後ろに取り残されて助けを求めて叫んでいます。
そんな状況で誰かが「もう2人分のスペースがある!」と言ったことから、細野正文の前に立っていた男が救命ボートに乗り移ると、細野も続けて飛び乗り満員宣言が出されました。
細野正文(タイタニックの日本人生存者)が非難の的に?
タイタニック生還者の一人であるイギリス人ローレンス・ビーズリーが1912年に出版した著作『THE LOSS OF THE SS.TITANIC』の中で「他人を押しのけて救命ボート(13号ボート)に乗った嫌な日本人がいた」と証言。
このことが日本国内で広まると細野正文は当時の新聞や修身の教科書などから批判に晒されてしまいますが、細野正文はいっさい釈明をすることなく口を閉ざしたままでした。
しかし1997年にタイタニック展示会主催団体「タイタニック・エキシビション・ジャパン」の代表マット・テイラーが、細野正文の手記や他の乗客の記録と照らし合わせた調査から、ビーズリーと細野正文は別の救命ボートに乗っており人違いであることを確認します。
その調査によれば、記録では細野が乗り込んだ救命ボート(10号ボート)にはアルメニア人男性と女性しか乗っていなかったことになっているが、事故当時、細野はひげをはやしていたためアルメニア人と誤記されてしまったと解釈。
一方、ビーズリーの13号ボートには中国人がおり、ビーズリーはこの中国人を細野と勘違いしたのだという。
「武士道」を記した新渡戸稲造も細野正文の名前を出さずにこの事故で助かった日本人がいることを皮肉っぽく語っていたほか、
女性と子供が優先というルールがある中で男性であったのに甲板から降ろされる途中の救命ボートに飛び乗るという特殊な手段を用いて助かった行為を、やはり批判ないし皮肉ったそうです。
細野正文の脱出時の様子をもう少し詳しく見てくと、45人分の女子供を乗せた4隻目の救命ボート(10号ボート)がスルスルと1ヤードか2ヤードほどおろされたとき、
滑車に故障があったようでピタリと止まり、『なんだ、まだまだ3人位ゆっくり乗れるじゃないか』という船員同士の話声がしたそうです。
そのとき、乗船の順番を待っていた三等客室の乗客とともにその場にいた二等客室乗客の細野正文にはどうやら優先権もあったようです。
細野正文が目を凝らして救命ボートを見ると、確かにボートの舳のところが空いて誰も居ない。
これなら飛込んでも誰れにも危害を与えまいと考えた細野正文は、すべての状況を冷静に考えて飛び乗ったと考えられます。
細野正文(タイタニックの日本人生存者)の手記
4月15日午前8時頃、救命艇の乗客はカルパシア号に救助されます。
カルパシア号は、タイタニック号から届く電信を受け、予定の航路を変更し救助に駆けつけた唯一の船として知られています。
細野正文はカルパシア号でニューヨークへ帰還する航海中、タイタニックの船室備え付けの便箋(タイタニックの文房具で現存する唯一の文書)で手記をまとめています。
壮絶な事故現場の生々しい様子とともに、日本人として恥ずかしくない行動を心がけつつ、生還への望みを懸けて下した細野の決断が記されている。
■細野正文さんの手記全文
引用:https://meitoukan.com/2019/01/29/%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%8B%E3%83%83%E3%82%AF%E5%8F%B7/
タイタニック生存者細野正文氏による手記 現代語訳
天気は快晴、午前七時起床、八時朝食、二時昼食、六時夕食、その間読書をしたり運動をしたり、あるいは自室で寝転がったりして日を送る。
やや眠気をもよおし、夢うつつの時、船が何かに付き当たったようだったが別段気に止めなかった。
間もなく船は停止した。おかしいとは思ったが、大事件が起きたとは思わず、いつも通り寝ていたが、11時頃Stewardが戸を叩くので開いてみると、「起きて甲板に行け」と言う。
「何事が起こったのか」と聞いたが答えない。救命浮き具を投げて置いていって、急いで去って行った。
甚だおかしいとすぐに服を着たが、急いだので白シャツや襟などを付けず、大急ぎで服を着て甲板に駆け上がって見れば、船客は右往左往とさまよって、皆、救命浮き具を付けている。
いぶかしんで(混乱の)理由を聞いたが誰も知らない。甲板で水夫は「三等デッキに下りろ」と言う。
言われるがままに下りたが多くの人が下りる様子がないため、また上がると咎められる。
(自分が)二等(客室の)船客であると伝えて(甲板に)上がることを許され、急いで自室に帰って財布だけを取って、時計、各国金貨、目鏡などを取るのを忘れ、毛布を掴んで大急ぎで最上甲板に上がる途中、水夫は「下甲板にいろ」と言われたが、聞こえない風をして上甲板に来たら、(救命)ボートを下ろしつつある。
(自分の)命も今日で終わることを覚悟して、慌てず、日本人の恥になるまじきと心掛けつつ、機会を待っていた。
この間、船上から危機を報せる信号の花火を絶えず上げており、その色は青く、その音はすさまじかった。
何となく物悲しさを感じた。船客はさすがに一人として叫ぶ者はなく、皆落ち着いていたことは感心すべきことだと思った。
ボートには婦人たちを優先的に乗せた。その数が多かったため、右舷のボート4隻は婦人だけで満員になった。
その間、男子も乗ろうと焦る者も多数いたが、船員は拒んで短銃を向けた。この時船は45度に傾きつつあった。
ボートが順次下りて最後のボートも(乗客を)乗せ終え、既に下りること数尺、その時に指揮員が人数を数へ「もう2人」と叫ぶと、その声とともに1人の男性が飛び込んだ。
私はもはや船と運命を共にするほかなく最愛の妻子を見ることもできないと覚悟して悲しみに耽っていたが、、まだ1人が飛ぶのを見て、この機しかないと短銃に打れる覚悟で数尺の下にある船に飛び込んだ。幸いなことに、指揮者はほかの事に取り掛かっていて深く注意を払っていたなかったし、しかも暗いために男女の区別もつかなかったのか、飛び込むと共にボートはするすると下りて海に浮んだ。
そそり立つような大船が、異常なほどの音を立ててその姿を海に沈めた今、目前にあったのを見たのに、もう陰も形もない。何と有為転変の世の中であることか。
沈んだ後、溺死しそうになっている人々の叫び声が実にすさまじく、ボートの中では、その夫や父親を案じている婦人たちの泣く声もまた盛んで、ああ、自分もどうなることかと思う時は気も心も沈んだ心地だった。
(海上を救命ボートで)漂っていると午前6時になった。すると遠方に煙を吐いてやって来る船を見た。さては助かるのかと思ってやや安堵した。
7時に船は遭難地点に完全に到着して停止した。それから順番にこの船に救い上げられた。私の(乗った)ボートは最後だった。
例によって婦人たちは最優先で私は最後の最後だった。船に上がり終えたのはちょうど8時。
ここでほっと一息するとともに感謝の気持ちがむらむらと湧きあがり、滂沱の涙を落とした。
2時に夕、昼食。やや心も落ち着くと、おもむろに持ってくるのを忘れた品が惜しい気持ちが出て、特にせっかく苦心して残しておいた各国の金貨その他約70円ほど、選別の時計、土産の時計、新調した洋服、帽子、シャツ、記念の名簿に友人の写真、インク入れなど、とても惜しい心持がして堪らなかった。
中でも留学中に書いたもの、日記を失ったのは取り返しが付かない損失だ。
人の欲も不思議なもので、今までは生命の安否に心が奪われていたためそれほどまでに思わなかったものの、今は生命もひとまず安全になった見込みだから、それともに品物を惜しむ気持ちが出てきた。
寝室は例によって婦人に先に入ってもらうので、私たちに部屋が割り当てられるはずもなく、Smoking roomで、船の毛布2枚を身に付けたまま靴を穿いて眠った。
不思議にも悪夢にもうなされることなくよく眠れた。
午後10時、昨日のように食堂で眠ろうとすると、婦人のみとのことだったので男性は許されず、やむをえず喫煙室に来て見れば満員でとても寝る所がない。
なので椅子に座ったままうとうとして一夜を明かした。実につらい航海だった。