高木波恵wiki|経歴は台湾で元教師!手紙でアンビリバボー

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高木波恵さんは台湾で10年間小学校教師を務めた日本人女性。

台湾で過ごした日々を懐かしみ、80年以上ぶりに教え子たちに手紙を送り、インターネットを通じて再会を果たしたことがアンビリバボーでも紹介されました。

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高木波恵wiki|経歴は台湾で元教師!

高木波恵さんは、1908年10月11日生まれ、2020年2月28日に111歳で亡くなられた熊本県玉名市出身の元教師です。 若い頃に警察官だった父親に連れられて日本統治下の台湾に移住し、そこで約10年間、小学校の教師として働き、日本語ができない台湾人生徒を対象に設立された公学校で国語を教えていました。 戦後、日本に引き揚げてからも台湾時代の教え子たちを懐かしみ、手紙のやり取りなどを通して交流を続けていました。

高木さんの人柄

高木さんは、教え子たちから慕われ、尊敬されていました。 教え子たちは、高木さんから日本語や算数を教わったこと、病気の際に薬をもらったり、貧しい家庭に育った子どもには衣服を買ってくれたことなど、高木さんの温かい人柄を物語るエピソードを語っています。 高木さんは、日本に帰ってからも、毎朝晩欠かさず、仏壇に教え子たちの健康を祈り続けていました。

その他

高木さんは、近所の飼い猫との交流でも話題になりました。 近所の飼い猫が遊びに来た時、娘の恵子さんがその日の出来事を短く書いてもらい、その手紙を首輪に結び、飼い主へ届けさせていました。 2年半で800通を超え、「伝書ネコ」と呼ばれるようになりました。 そのネコは、熊本地震のあった2016年の冬に死んでしまいました。

高木波恵wiki|手紙でアンビリバボー

2015年、台湾映画『KANO 1931海の向こうの甲子園』の日本公開をきっかけに、高木さんは台湾時代の教え子たちに手紙を書きました。 当時の住所で書いた手紙は「宛先不明」になるところでしたが、台湾の郵便局員たちの尽力により、教え子のもとに届けられました。 この手紙をきっかけに、高木さんと教え子たちは約80年ぶりに再会を果たし、インターネットのテレビ電話を通じて交流する様子が台湾で大きく報道され、話題となりました。

その後も、高木さんは教え子たちと手紙のやり取りを続けたり、教え子の子どもたちが高木さんを訪問するなど、交流は続いていました。 2017年には、台湾の総領事館にあたる台北駐福岡経済文化弁事処から「日台双方の友好関係の絆を作った」として感謝状が贈られました。 高木さんの元に届いた最後の台湾からの手紙は、2020年2月28日の死の直前に届けられました。

まとめ:高木波恵wiki|経歴は台湾で元教師!手紙でアンビリバボー

高木波恵さんが台湾の教え子たちへ宛てた手紙は、2015年に台湾で大きな話題となりました。

  • きっかけは、2015年1月、日本統治時代の台湾の野球部を描いた映画『KANO 1931海の向こうの甲子園』が日本で公開されたことでした。
  • 高木さんはこの映画をきっかけに、台湾時代の教え子たちのことを思い出し、手紙を書くことにしたのです。
  • 高木さんは当時106歳と高齢だったため、娘の恵子さんに代筆を頼み、かつての教え子たちの住所宛に手紙を送りました。

しかし、高木さんが持っていた住所は昔のままで、すでに存在しない住所だったため、手紙は「宛先不明」となってしまいます。

  • 通常であれば、差出人に返送されるところですが、台湾の郵便局員たちは、この手紙が大切なものに違いないと感じ、送り届けるために奔走しました。
  • 特に、新米郵便局員の郭柏村さんは、高木さんの封筒を見て「送り返してしまうのは、何かいけないことをしているような気がした」と語り、先輩の陳恵澤さんと共に、昔の住所を頼りに戸籍を調べたり、近隣住民に聞き込みをするなどして、12日間かけて手紙の届け先を探し当てました。

こうして、高木さんの手紙は、約80年の時を経て、教え子である楊漢宗さんのもとへ届いたのです。 楊漢宗さんは当時88歳になっていました。 この手紙がきっかけとなり、高木さんと教え子たちはインターネットのテレビ電話を通じて再会を果たし、感動的な場面が台湾のメディアで大きく報じられました。

その後も、高木さんと教え子たちの間では手紙のやり取りが再開され、交流が続きました。 高木さんの元に届いた最後の手紙は、2020年2月28日、亡くなる直前に届けられています。

高木さんと教え子たちのストーリーは、『この手紙、とどけ! 106歳の日本人教師が88歳の台湾人生徒と再会するまで』というタイトルで書籍化もされました。

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