多羅尾光源坊は映画「首」の登場人物の一人。
白塗りでキツネ面の女性2人を従えていましたが、光源坊を演じていたのは誰なんでしょうか?
多羅尾光源坊はホーキング青山|首(映画)の白塗り
6年ぶり北野武監督最新作「首」、プロが見た驚きの感想【前編】難産の末に「キャスティングには成功」したがプロの評価は?
■「正史と偽史」「主音声と副音声」が不整合にもつれ合う
問題はこの原作の構成上の欠陥にあった。それが映画『首』の編集上の問題に直結してくるのだ。
原作にもある北野武のオリジナルな歴史仮説は、闇のルートから秀吉の手に入った信長の息子・信忠宛ての権力委譲を明言する手紙にある。
その虚構的な設定自体に問題があるわけではない。
https://news.yahoo.co.jp/articles/d1e2617d0df53a68fcbdf8ab7cd26a0d8a6bb019?page=3
映画「首」の登場人物の一人・白塗りの多羅尾光源坊を演じていたのはホーキング青山さんです。
先天性多発性関節拘縮症のため、生まれたときから両手両足は使ず、本名の世多加は、両親の初デートがニール・セダカのコンサートだったことからつけられたそうです。
出身地;東京都大田区
生年月日:1973年12月7日
年齢:49歳
血液型:O型
所属事務所:株式会社ホーキング青山プロモーション
芸名は理論物理学者で青山と同じく両手両足が不自由なスティーヴン・ホーキングに由来
落語をやる際の高座名は『古今テー志んショー者』改め『古開院亭大麻(こかいんていたいま)』
多羅尾光源坊は実在?|首(映画)の白塗り
映画「首」に出てくる多羅尾光源坊は信長の息子宛の書状を所持している甲賀の里の盲目の切支丹。
曾呂利新左衛門の兄貴分の多羅尾四郎兵衛(寺島進)が、光源坊の配下にあり、書状は曾呂利を介して秀吉の元に届き、跡目への期待を裏切られた秀吉も信長への忠誠を裏切る腹を固めます。
多羅尾光源坊が実在したかどうかについては定かではありません。
ただ史実では、、鎌倉時代に近江国甲賀郡信楽荘多羅尾に発祥し、江戸時代末までこの地を治めた武家として「多羅尾」があったそうです。
本能寺の変の後、徳川家康の伊賀越えを助けたのが多羅尾光俊という人物です。
光源坊のモデルは多羅尾光俊?|首(映画)の白塗り
多羅尾光俊とは、戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した近江国の武将です。甲賀五十三家の一つである多羅尾氏の14代当主で、通称は四郎兵衛、四郎右衛門、号は道賀斎といいます。
光俊は、幼い頃から武芸に優れ、六角氏や織田氏に仕えて、その才能を発揮しました。
本能寺の変で織田信長が亡くなった後、家康は明智光秀の追っ手から逃れるために、伊賀越えを決意します。
伊賀は山深く、野武士がうろついていたため、家康の身を案じた服部半蔵は、甲賀・伊賀の忍者たちに警護を依頼しました。
光俊もその一人で、家康の伊賀越えを成功に導くために、忍者たちと協力して、家康を安全に伊賀を抜け出させました。
この伊賀越えは、家康の天下取りのきっかけとなった出来事であり、光俊の功績は非常に大きかったと言えるでしょう。
また、光俊は家康の信任も厚く、徳川幕府が成立した後は、尾張国小牧城主や、伊賀国代官を務めました。
光俊は、戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した、実力と人望を兼ね備えた武将でした。
以下に、光俊の功績をまとめます。
本能寺の変後、家康の伊賀越えを成功に導く
徳川幕府の成立に貢献する
光俊の功績は、当時の歴史を大きく動かすものでした。