立嶋篤史さんは50歳を過ぎた現在もリングに立つ「キック界のカリスマ」。
松本人志とも交流があり2023年6月5日放送「クレイジャーニー」に出演した立嶋篤史選手の気になるプロフィールをまとめています。
立嶋篤史の成績・戦績
1988年4月29日、16歳で後楽園ホールのリングに上がりKO勝ちで日本公式デビュー。
1991年4月21日、全日本キックボクシング連盟フェザー級王座決定戦にて椿宗徳と対戦。2ラウンドTKO勝ちで初のタイトルを獲得(第11代全日本フェザー級王者)。
同年7月14日、WKA世界フェザー級王座決定戦にてビクター・ソリエル(プエルトリコ)と対戦。不慣れなWKAルールと、ソリエルの的確な強打のために一方的な展開となり、2ラウンドKO負け。王座獲得に失敗。
1992年3月28日、前・全日本フェザー級王者でWKAスーパーバンタム級王者の清水隆広と対戦。ローキックによる3ラウンドKO勝ちで、事実上の全日本フェザー級トップ選手となる。
同年5月30日、MA日本キックライト級1位(同・前フェザー級王者)の山崎路晃との団体対抗戦に判定勝ち。
同年7月18日、全日本フェザー級タイトルマッチにて前田憲作と対戦。判定負けで王座防衛に失敗。
1993年11月27日、全日本フェザー級タイトルマッチにて王者・前田憲作と対戦。3ラウンドKO勝ちで王座に復帰(第13代全日本フェザー級王者)。
1994年7月30日、全日本フェザー級タイトルマッチにて佐藤孝也と対戦。2ラウンドKO負けで王座防衛失敗。
1995年7月30日、全日本フェザー級タイトルマッチにて王者・佐藤孝也と対戦。判定勝ちで王座に復帰(第15代全日本フェザー級王者)。
1996年3月24日、全日本フェザー級タイトルマッチにて鈴木秀明と対戦。判定負けで王座防衛に失敗。
1997年3月23日、全日本フェザー級王座決定トーナメント準決勝にて、佐久間晋哉と対戦。判定負け。谷山ジムに移籍し(13年後に同ジムが中核となったビッグバン実行委員会旗揚げ興行でEXで対戦の)土屋ジョーと同僚に。東京ドームで行われたK-1 JAPANフェザー級GP’97には全日本キック代表として出場期待されたが拒否。
1999年3月17日、全日本フェザー級王座決定トーナメント1回戦にて、高田英樹と対戦。5ラウンドKO勝ち。
同年6月1日、全日本フェザー級王座決定トーナメント準決勝にて、増田博正と対戦。判定負け。11月30日谷山ジムの全日本キック円満離脱に伴い、RIKIジムに円満移籍。
■獲得タイトル
全日本キックボクシング連盟フェザー級王座
■戦績
42勝(27KO)50敗8分。
立嶋篤史wikiプロフィール
名前:立嶋篤史(たてしま あつし)
出身地:東京都豊島区
生年月日:1971年12月28日
年齢:51歳
身長:173cm
体重:57kg
階級:フェザー級
出身高校:千葉工商高等学校(現在の敬愛学園高等学校)
立嶋篤史の経歴
立嶋篤史は、1971年12月28日生まれの日本のキックボクサーです。東京都豊島区出身で、元全日本フェザー級王者です。
1990年代前半に活躍し、1993年にはライバル前田憲作にKO勝利するなど「立嶋ブーム」を巻き起こしました。日本キックボクシング界最初の1千万円プレーヤーであり、カリスマと呼ばれていました。
幼少の頃からいじめを受け、小学生の時に死を考えるも思いとどまり、中学2年生でキックボクシングと出会います。
習志野ジムに練習生扱いとして所属、中学卒業後単身タイに渡りムエタイの修業をする。1987年8月3日、非公式ながらタイのランシットスタジアムでデビューを果たした。
立嶋篤史のツイッターやインスタグラム
立嶋篤史のツイッター
立嶋篤史のインスタグラム
立嶋篤史のフェイスブック
立嶋篤史のブログ
立嶋篤史の公式HP
立嶋篤史のyoutube
立嶋篤史のtiktok
立嶋篤史の高校や中学は?
立嶋篤史さんの通っていた中学については学校名は明らかになっていないものの、高校は千葉工商高等学校(現在の敬愛学園高等学校)です。
1989年に高校を再受験し合格。しかし、試合と試験の日程が重なり、単位不足のため一度留年を経験し、1993年に卒業したそうです。
立嶋篤史の身長・体重は?
フェザー級の立嶋篤史選手の身長体重は次のとおりです。
身長:173cm
体重:57kg
立嶋篤史の結婚した妻は?息子(子供)は立嶋挑己
立嶋篤史さんの結婚歴に調べたところ、どうやらシングルファーザーであることがわかりました。
結婚した妻については離婚したのか、死別したのか、それともきちんと結婚という形になっていたのかはわかりませんが、現在立嶋篤史選手に一緒に暮らす妻はいないようですね。
立嶋篤史の息子(子供)は立嶋挑己
立嶋篤史さんは息子の立嶋挑己さんとともに暮らしキックの英才教育を施していたそうです。
■立嶋挑己(たてしま・いどむ)プロフィール
生年月日:1998年8月6日
年齢:24歳
出身地:千葉県船橋市
身長:167cm
所属:ASSHI-PROJECT
戦績:9戦4勝(2KO)3敗2分
本格的に練習を始めたのは8歳ごろでアマチュア大会を経て2015年1月に父親と同じく16歳でプロデビュー
立嶋篤史wiki現在|妻・息子は?松本人志でクレイジージャーニー
立嶋篤史(たてしま あつし)は、日本の男性キックボクサーであり、キックボクシングジム『ASSHI-PROJECT』の主宰者(経営者)です。彼は1971年12月28日に東京都豊島区で生まれました。
立嶋は1990年代前半に活躍し、その頃はキックボクシング界で注目を集めました。1993年にはライバルの前田憲作に対してKO勝利を収め、「立嶋ブーム」と呼ばれる現象を巻き起こしました。彼は日本キックボクシング界で初めて1千万円のプレーヤーとして知られ、カリスマとしても称されました。
立嶋は幼少期からいじめに悩まされ、小学生の時には死を考えることもありましたが、中学2年生の時にキックボクシングと出会いました。彼は習志野ジムに練習生として所属し、中学卒業後に単身タイに渡り、ムエタイの修業を積みました。1987年8月3日には非公式ながらタイのランシットスタジアムでデビューを果たしました。
帰国後の1988年4月29日、わずか16歳で後楽園ホールのリングに上がり、KO勝利を収めて日本公式デビューを果たしました。彼は1989年に高校を再受験し合格し、千葉工商高等学校(現在の敬愛学園高等学校)に入学しました。しかし、試合と試験の日程が重なり、単位不足のため一度留年を経験し、1993年に卒業しました。
1991年4月21日、彼は全日本キックボクシング連盟のフェザー級王座決定戦で椿宗徳と対戦し、2ラウンドのTKO勝利で初のタイトルを獲得しました(第11代全日本フェザー級王者)。その後、彼はWKA世界フェザー級王座決定戦に進出しましたが、不慣れなルールと相手の的確な強打に苦しんでしまい、2ラウンドのKO負けとなり王座獲得に失敗しました。
1992年3月28日、立嶋は前全日本フェザー級王者である椿宗徳とのリマッチを果たし、試合は5ラウンドの接戦の末、判定ドローとなりました。その後、立嶋は1993年4月25日に行われたWKA世界フェザー級王座決定戦でドリュー・ホーランと対戦し、5ラウンドの激闘の末、判定勝利を収め、WKA世界フェザー級王座を獲得しました。
立嶋の人気はこの試合をきっかけにさらに高まり、彼は日本キックボクシング界のスター選手としての地位を確立しました。その後も数々の試合で活躍し、トップ選手として名実ともに存在感を示しました。
しかし、立嶋のキャリアは急速に終焉を迎えました。1995年には怪我のため試合から遠ざかり、1996年には引退を表明しました。引退後はトレーナーや指導者として後進の育成に携わり、後進の選手たちに自身の経験や技術を伝えることに注力しました。
また、立嶋はメディアへの露出も積極的に行い、テレビ番組への出演や執筆活動など、幅広い活動を展開しました。彼の熱血でパワフルなパフォーマンスや、ストイックなトレーニング姿勢は多くの人々に感銘を与え、キックボクシング界に大きな影響を与えたと言えます。
立嶋篤史は、日本キックボクシング界において非常に重要な存在であり、その短いキャリアの中でも多くの栄光をつかみ、多くの人々に勇気や希望を与えました。彼の功績と才能は、今でも語り継がれています。