破門草事件とは?らんまんトガクシソウ事件

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破門草事件(トガクシソウ事件)とはかつて植物学会を揺るがしたとされる出来事。

NHK朝ドラ「らんまん」の主人公・万太郎のモデルとなった牧野富太郎自叙伝にも破門草事件(トガクシソウ事件)について触れられています。

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破門草事件とは?らんまんトガクシソウ事件

昔、ある植物をめぐる争いが起こりました。その結果、同じ植物に対して二つの名前がつけられるという珍しい現象が生じました。この出来事は「破門草事件」として知られ、語り継がれるようになりました。

この事件の登場人物は二人の名前付けを行った植物学者です。一人は伊藤篤太郎であり、彼は東京大学の教授であった伊藤圭介の孫であり、在野の植物学者でした。もう一人は、東京大学植物学教室の初代教授である矢田部良吉です。

物語は伊藤篤太郎の父である伊藤謙が、1875年に戸隠山で未知の植物を採集したことから始まります。伊藤謙は伊藤圭介の三男で、その才能が期待されていました。明治時代初期は国策として産業の発展が求められており、地域の動植物や鉱物を解明する必要がありました。明治8年、長野県で山岳調査が行われることになり、当時24歳だった謙も参加しました。

調査の終盤、一行は8月9日に戸隠山系の高妻山山頂を目指している最中、森の中で未知の植物に出会います。謙はこの植物を採集し、伊藤圭介が勤める小石川植物園に持ち帰りました。この植物は翌年に開花し、研究が進められるはずでしたが、謙は病に倒れ、わずか4年後に若くして亡くなってしまいました。

謙の研究を引き継いだのは伊藤篤太郎でした。当時13歳だった篤太郎は植物学の才能を認められ、18歳でロシアの植物学者マキシモヴィッチに手紙や植物標本を送りました。その中には未知の植物の標本も含まれていました。

しかし、別の学者である矢田部良吉も同じ植物について研究を行っていました。矢田部は小石川植物園で情報を得たと思われる未知の植物を採集し、園に移植しました。2年後に開花し、翌年にはマキシモヴィッチに標本を送って鑑定を依頼しました。矢田部はこの植物に「トガクシショウマ」という和名を付けようと考えていました。

帰国後、イギリスのケンブリッジ大学に留学していた22歳の伊藤篤太郎は、伊藤謙が採集したタイプ標本を基に研究論文を執筆し、イギリスの植物学雑誌に投稿しました。1888年の論文で彼は新属を提唱し、「トガクシソウ」という和名を発表しました。

破門草事件(らんまんトガクシソウ事件)のその後は?

このようにして、植物学者の間で植物の名前についての争いが起きたのです。伊藤篤太郎と矢田部良吉は同じ植物に対して別々の名前を付けたため、破門草事件と呼ばれるようになったのです。

これ以降も植物学界での命名争いは続きましたが、破門草事件は植物学の歴史の中で興味深いエピソードとして語り継がれています。

らんまんの破門草事件(トガクシソウ事件)

破門草事件についてNHK朝ドラ「らんまん」では田邊教授(要潤)が研究していたトガクシソウをめぐり植物学会を揺るがす大事件として登場。

田邊教授のモデルとみられるのは東京大学植物学教室の初代教授・矢田部良吉

ケンブリッジ大学に留学中の伊藤孝光(落合モトキ)がトガクシソウを新属『RANZANIA T.Ito』として発表した

トガクシソウに関して、伊藤孝光が既に分類・命名し、マキシモヴィッチ博士に送っていたものの、マキシモヴィッチは田邊によるトガクシソウの新たな標本に注目。

新属の可能性があると研究を開始。田邊の名前を付けて新属として発表しようとしたが、断定には標本が足りない。

標本が揃い、マキシモヴィッチが新属と発表すれば、伊藤家が提唱した名は改められるという状況となりました。

まとめ;破門草事件とは?らんまんトガクシソウ事件

トガクシソウは、日本固有種の多年草で、戸隠山系に自生しています。1875年に伊藤謙によって発見され、1888年に伊藤篤太郎によって学名が発表されましたが、この発表をめぐって矢田部良吉と伊藤篤太郎の間に学術的な対立が起こりました。この事件は「破門草事件」と呼ばれています。

矢田部良吉は、東京大学植物学教室の初代教授であり、日本の植物学界を代表する学者でした。1884年にトガクシソウを発見し、学名をRanzania japonicaと命名しました。しかし、伊藤篤太郎は矢田部良吉の学名に異議を唱えました。伊藤篤太郎は、トガクシソウは矢田部良吉が発見した植物とは別の種であり、学名はRanzania japonicaではなく、Ranzania togakusiensisにすべきだと主張しました。

この学術的な対立は、当時の植物学界に大きな波紋を呼びました。矢田部良吉は、伊藤篤太郎を東京大学から追放し、伊藤篤太郎は在野の植物学者として活動することになりました。

破門草事件は、学術的な対立が個人的な対立に発展する危険性があることを示す事件として後世に知られるようになりました。

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