北条時房は執権の北条泰時との協力体制を確立して政務を執った鎌倉幕府初代連署
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で義時の異母弟とされていますが北条時房の母は誰?「時房」の母は牧の方という設定でしょうか?
北条時房の母は誰?牧の方?鎌倉殿の13人
<鎌倉殿の13人>最終回あらすじ場面カット解禁! 徹底抗戦選んだ幕府 そんな中、三浦義村は…?
「鎌倉殿の13人」は61作目の大河ドラマ。脚本は、2004年の「新選組!」、2016年の「真田丸」に続き3度目の大河ドラマ執筆となる三谷幸喜さんで、後の鎌倉幕府の二代執権・北条義時(小栗さん)が主人公。野心とは無縁だった若者が、いかにして武家の頂点に上り詰めたのかを描く。
反目する義時を討ち取るため、義時追討の宣旨を出し、兵を挙げた後鳥羽上皇(尾上松也さん)。これに対し、政子(小池栄子さん)の言葉で奮起し、徹底抗戦を選んだ幕府は、大江広元(栗原英雄さん)や三善康信(小林隆さん)の忠言を聞き入れて、速やかに京へ派兵することを決断する。
https://news.yahoo.co.jp/articles/479c4b1184c0733e9f3f2cabd31f7c36576bc7cb
「鎌倉殿の13人」第一回第1回で女の子と共に赤ん坊の男子が登場しています。
父・時政が嫁取りの報告を子供たちにする時、義時ら4人が並んでいる後ろに、ちょっと身分が低そうな女性と幼い子供たちがいました。こ
これが義時の兄弟で、赤ん坊が後時房です。政範は1189年生まれなので、第13回(1183年)ではまだ登場できません。
北条時政には15人子供がいます。
このうち伊東祐親の娘が宗時・義時と阿波局の3人、牧の方が4人の母ですが、政子を筆頭に残り8人の母親が不明です。
宗時・政子・義時、実衣(阿波局)は登場していますから残り6人。
6人の構成は男子一人(時房)、女子5人で、結婚した時期から女子のうち数人は牧の方との再婚以前に生まれていたと考えられます。
すなわち後ろにいた子供たちは時政の子供たちで女性は乳母もしくは名前の残っていない妾です。
エピソードの起こった時期から考えて、赤ん坊は母親不明の北条時房(1175年生まれ)であろうと思われます。
時房は牧の方との再婚の前後に生まれた母親不明の子ですから、あのシーンで女性が抱いていた赤ん坊ということになります。
これらの子供は戦中は政子たちと同じく伊豆山権現に避難したと考えられます。
まとめ:北条時房の母は誰?牧の方?鎌倉殿の13人
北条時政の子供について、息子としては、宗時、義時(2代執権。得宗家の家祖)、時房(初代連署。大仏流北条氏の家祖)、政範があり、娘としては政子(尼将軍)、阿波局(源頼朝の弟、阿野全成の妻にして3代将軍実朝の乳母)、時子(足利義兼の妻)を中心に多数。
うち宗時、義時、阿波局は伊東祐親の娘を母とし、政子と時子は同母姉妹だが、母の詳細は不詳。時房は兄弟姉妹と母は異なるが、やはり母の詳細は不明。政範は時政の後妻である牧の方を母とする。時政と牧の方の間には政範のほか、平賀朝雅の妻など多数の女子あり。
宗時が戦死すると、義時が時政の嫡子になった……と思われがちだが、実際は後妻たる牧の方が生んだ政範が時政の嫡子と目されていた。若くして従五位下となり、26歳年長で既に幕府重臣(13人の合議制の1人)となっていた義時と同格になっている事からそう言われるが、16歳で早世した為、以後は義時が後継者の座を固めた。というより義時は異母姉の政子と組んで時政と牧の方を失脚に追い込んで、半ば強引に北条家の家督と執権の座を継いだと言った方が正しいか。
北条時房は、父・時政や異母兄・義時、さらには義時の子である3代執権・泰時ら得宗家を支え続け、初代の連署(事実上の副執権)を務めるなど一族の長老として君臨した。時房の子の1人である北条朝直は大仏流北条氏を興し、大仏流は後に11代執権・北条宗宣(大仏宗宣)を出すほどの有力な分家となった。