鳥居強右衛門の子孫は?
長篠城の戦いで、籠城を脱出し、徳川家康の下に使者に赴いた鳥居強右衛門ですが、子孫・息子はその後、どうなったのでしょうか?
鳥居強右衛門の子孫・息子は?
鳥居強右衛門の子孫は長篠の戦いの後、奥平家からは優遇され出世しています。
そして、鳥居強右衛門の逸話はすべてが事実ではなくても、強右衛門は死んだのでしょう。
奥平氏は城抜けして徳川方に入り、長篠城を任されていますから、武田に降伏しても一族郎党すべて皆殺しになります。どうせ死ぬなら未来がある死を選ぼう、と士気を高めて必死に籠城していた奥平軍にとって彼の功績はとても大きいものでした。
父親が亡くなり、二十歳そこそこで奥平家を守らなくてはならない重責を背負っていた若き当主は、「彼の功績があったから家康に認めてもらえた」と、彼の一族を大切にしました。
足軽でしかなかった鳥居強右衛門ではあるが、この功績によって幼かった息子の信商(二代強右衛門)は奥平家中において一躍100石取りの上士とされた。
25年後の関が原の戦いでも信商は奥平信昌に従い本戦に参加、戦後京都にて安国寺恵瓊を捕縛するという手柄を立て200石に出世したという。
信昌の末子・松平忠明が家康の養子として分家をてると、信商は忠明の家臣として譲りうけられた。
この後、信商の子孫は代々強右衛門を名乗り、奥平松平家の重臣の家柄となり、家老を排出することもあたという。
鳥居家は明治維新まで奥平松平家を支え続け、現在もその家系は続いているという。
まとめ:鳥居強右衛門の子孫・息子は?
鳥居強右衛門の子孫は代々、奥平家に仕え、子孫は同家の家老にもなるなど厚遇されたそうです。
鳥居強衛門の主家は奥平家であり、幕末には中津藩として残っています。しかし強衛門の息子二代強右衛門信商は、家康の養子となった(もともと外孫の)奥平あらため松平忠明が家臣として貰い受けています。
奥平松平家は、上野大胡藩→三河作手藩→伊勢亀山藩→摂津大坂藩→大和郡山藩→播磨姫路藩→播磨姫路藩→出羽山形藩→下野宇都宮藩→陸奥白河藩→出羽山形藩→備後福山藩→伊勢桑名藩→武蔵忍藩と移って幕末を迎えます。
家系は現在も続いているとのことですが、分家などはそのまま奥平家に残っていた可能性があります。ただし本家というか直系は忍藩ですね。
鳥居強右衛門の子孫・息子は?ネットの口コミは?
「どうする家康」岡崎体育 大河初出演!戦国版“走れメロス”鳥居強右衛門役 磔に?役作り「悩みました」
シンガー・ソングライターの岡崎体育(33)が放送中のNHK大河ドラマ「どうする家康」(日曜後8・00)に「長篠の戦い」(天正3年、1575年)で大活躍した足軽・鳥居強右衛門(とりい・すねえもん)役で出演することが決定し10日、番組公式サイトで発表された。大河初出演にして時代劇初挑戦。「大河ドラマは子どもの頃から祖父と一緒に見ていたので、そんなシリーズに出演できて、うれしいです。『元禄繚乱』(1999年)が好きでした。祖父と吉良上野介と浅野内匠頭の名シーンを家の居間で真似して遊んでいました」と喜んでいる。
https://news.yahoo.co.jp/articles/0c8d88f453117164ce3790ceae285e148fcbb2b9