トランスエア・サービス671便エンジン脱落事故とは両翼に2機ずつあったエンジンのうち片翼の2機が脱落した航空事故。
しかし乗員数5人全員が生還するという奇跡の緊急着陸をさせました。
トランスエア・サービス671便エンジン脱落事故の経緯
トランスエア・サービス671便は1992年3月31日、ナイジェリアで使う油田掘削装置を詰め込んでルクセンブルク・フィンデル空港を離陸したボーイング707-321C(5N-MAS)。
32,000フィートまで上昇したところで突然乱気流に見舞われ轟音が鳴り響き機体が傾きかける。すんでのところでひっくり返るところだった機長が手動でなんとか機体を制御しその間にチェックリストや無線送信を担当していた副操縦士が窓の外を見ると第四エンジン、そしてややおくれて第三エンジンももげていることを発見。
墜落するかもしれないという最悪の事態を想定していた副操縦士は全滅しても証拠が残る可能性をかけてその様子をカメラで写真に収める。
上昇時にトランスポンダの電力を第4エンジンが担当していたためトランスポンダが切れ一時期迷子になる
そこで航空機関士は電力の供給源を第1エンジンの発電機に切り替え、管制官がレーダー上で機影を確認することができるようになり、マルセイユへの誘導が開始された。
また、ロードマスターに右主翼の状態を確認させ、両エンジンが脱落しており、燃料が漏れているが前縁部に損傷がないことを確かめたが、エンジンが取れ損傷した場所の電線が切れたため不時着するために高度を下げ速度を落としたとで右翼で火災が起こる。
不時着するとき空港周辺が悪天候という万事休すの同機だったが、機長の腕力による筋力操縦とクルーの連携が功を奏し、乗員全員と積み荷は無事にプロヴァンス空軍基地に着陸することができた。
当初、副操縦士はイストルの北東に位置するサロン=ド=プロヴァンス空軍基地(英語版)と思い、交信を行ったが管制官が訂正した。最初は滑走路33への進入を試みたが、正対出来なかったため滑走路15への進入を開始した
トランスエア・サービス671便エンジン脱落事故の原因
なくなった二基のエンジンの行方を追ったところ事故翌日にそれらが割と近い場所で見つかり、さらにはエンジンが衝突した跡が見つかったことから、脱落した第三エンジンが第四エンジンにぶつかって機体からことが判明。今回のインタビューに出演した件の副操縦士も「事故直後は激しく揺れたのでシートベルトを強固な5点式にせざるを得ず最初は第三エンジンまで見る余裕がなかった」とエンジンストライクが起こった可能性に納得した。
そして破損した第三エンジンを調べたところ、エンジンを固定するためのパイロンのうち一つが金属疲労を抱え脆くなっており、風速40メートルの強風を横から受けて限界がきて破損し、支えが減少したことで連鎖的に残りのパイロンも破損して脱落したことがわかった。
さらに機材を調べてみると同機は1964年4月から長年複数の航空会社で旅客機として運用されていたがここ最近は海岸近くの倉庫で保管され一部の部品が腐食しており、そうとは知らないトランスエア・サービスが事業を立ち上げる際に貨物機として購入したものだった。当時のFAAの耐空改善命令に基づいた整備点検マニュアルではこの亀裂を見つけるには不十分であり、さらには上記の第19期第七話の様にB707や同機を給油機に改装したKC135で犠牲者は出なかったもののエンジンが脱落する事例が相次いだため、NTSBはFAAに対空改善命令をさらに厳重にすることを勧告することになった。
なお、翼の片方が炎に包まれながら着陸に挑むという構図は奇しくも第19期第9話のプロップエア420便墜落事故でも起こっており、あちらはもう少しで全員助かるかもしれないという着陸寸前で翼が折れてバランスを崩し乗員乗客全員が犠牲となる悲劇となっていました。
トランスエア・サービス671便エンジン脱落事故の機長は?
トランスエア・サービス671便の機長は57歳のスウェーデン人男性だった。総飛行時間は26,000時間で、ボーイング707では7,100時間の経験があった。また、ボーイング707の他にダグラス DC-6、ロッキード L-188、シュド・カラベル、ボーイング737での飛行資格があった
副操縦士は44歳のイギリス人男性だった。総飛行時間は14,000時間で、ボーイング707では4,500時間の経験があった
航空機関士は55歳のイギリス人男性だった。総飛行時間は18,000時間で、全てがボーイング707での経験だった
このほか、36歳の地上整備士と27歳のロードマスターが搭乗していた
BEAは最終報告書で、事故原因を第3エンジンの脱落だと述べた。脱落した第3エンジンは第4エンジンに激突し、どちらのエンジンも落下した。第3エンジンの脱落は接合部の疲労亀裂によるもので、亀裂は検査によって発見されなかった[25]。この検査はFAAの耐空改善命令(AD)に従っていたが、亀裂を発見するには不十分だった。
BEAはパイロット達の行動について「一連の出来事による多量の仕事を上手く分担し、これが機体の制御を可能にしたことは明白である」と報告書で述べた。
事故後、パイロットはHonourable Company of Air Pilotsからヒュー・ゴードン・バージ記念賞を受賞した。