ユナイテッド航空232便不時着事故!その後のパイロットは?

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ユナイテッド航空232便不時着事故とは人呼んで“アイオワの奇跡”と呼ばれる航空機業界で、“アイオワの奇跡”と呼ばれている、伝説の着陸劇。

乗員・乗客あわせて296人全員の命が絶望しされるような状況から、様々な偶然と機転で半数以上の命が救われました。

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ユナイテッド航空232便不時着事故とは

United Flight 232 Crash- Mark Murdock as the pilot

1989年7月19日、ユナイテッド航空232便は、デンバーのステープルトン空港を1409時に出発し、シカゴ・オヘア空港を経てフィラデルフィアへ向かいました。

機体はマクドネル・ダグラス社製DC-10-10型機、シリアルナンバー46618/118、登録番号N1819U。

パイロットは、アルフレッド・C・ヘインズ機長、ウィリアム・R・レコーズ副操縦士、ダドリー・J・ドボラック副操縦士

機長はベテランで、飛行機は就航17年目で飛行時間は4万3000時間以上でこれまで無事故。

飛行開始から1時間7分後、フライトレベル370(37,000フィート)で浅い右旋回中に、ユナイテッド航空232便のパイロットたちは大きな音を耳にすると同時に、振動と揺れを感じました。

ステープルトン国際空港からシカゴ・オヘア国際空港へ向けて飛行中に、尾翼の第2エンジンが故障。機長は第2エンジンを停止したが、3系統の油圧が全てゼロになっていた。

機体のコントロールが不能になり、操縦桿が反応しなくなった。

ユナイテッド航空232便の垂直安定板に搭載されていた第2エンジンが不完全燃焼を起こし、さらに、爆発によって生じた破片が、この部分を通っているほぼすべての油圧ラインを切断。

機長はエンジン出力を調整して、右に傾いた機体を何とか立て直しを図りますが、その間、毎分250mずつ高度が下がっていました。

機長は乗客にエンジンの故障とだけを伝えていますが、事態は、既に絶望的でした。

【ATC】United Airlines Flight 232 ATC Recording 【UAL232】

ジェット機は下降しながら右旋回を始めたが、乗組員は2つの翼に搭載されたエンジンのスロットル設定を使って部分的にしか制御できなかった。

15時20分、パイロットは緊急事態を宣言し、ミネアポリス航空路交通管制センター(ARTCC)からスーシティへ向かうよう指示されます。

乗客としてたまたま乗っていたユナイテッド航空の非番の機長デニス・E・フィッチは、訓練センターでDC10の教官をしていました。

客室乗務員に対し協力を申し出てコックピットに入ると、初めて見る状態に彼も驚きますがデニスがスロットルを担当することになります。

彼は機長と副操縦士の間に座り、(推力の)スロットルレバーを両手に持ち微妙な推力操作を行いました。

デニス・フィッチは1985年8月に御巣鷹山に墜落したJAL123便事故の教訓から、油圧が抜けて操舵不能になった場合の操縦法を研究していました。

なお、JAL123便の墜落事故では油圧喪失による操縦不能に加えて、尾翼喪失によって、航空機として安定した飛行をする為の機体形状も失われていました。

デニス・フィッチはさすがに研究をしているだけあり、機体はある程度安定しました。(乗客はトイレに歩いていくこともできたようです)

エンジンの推力だけを利用して、飛行する方向を調整したり、推力を上げ下げして高度を調節したりしながら、何とかアイオワ州スーシティの空港までたどり着きます。

余分な燃料をすべて廃棄したあと、着陸するためには機体を滑走路の正面に合わせる必要があるが、機体は右にしか曲がれない状態だったので、右旋回だけで試みて、何とか滑走路の正面に来ます。

指示された滑走路とは違う滑走路だったが、ユナイテッド航空の232便は通常よりも100キロ速いスピードでそのまま着陸態勢に入ります。進入中もフィッティは細かくスロットルを調整し続けます。

最後の瞬間、機体は急降下して滑走路22の短距離、センターラインの右に衝突。

右翼が最初に衝突した。その後、ジェット旅客機は反転して転がり、炎上してトウモロコシ畑の中で分解した。機体中央部は裏返しになって、炎上し続けました。

胴体は、接地の衝撃で5つに分離。機体前部と後部は損傷が激しく、その多くが死亡。機体中央部は、その後方が主翼の火災にさらされたため、煙による窒息者が多く出ました。

激しく損壊したコックピットは絶望視され、救援は後回しにされますが、奇跡的に乗員4人が救出されています。

乗員乗客296名中110名が死亡。これだけの絶望的な状況にも関わらず、生存者がいたことが、既に奇跡です。

ユナイテッド航空232便不時着事故では3歳児も生還

ユナイテッド航空232便は、子ども料金が1セント(大人1人につき子ども1人まで)だったことから52人の子どもが乗っていました。

炎上しながら滑走路を滑り、バラバラになった機体からは乗客たちが次々に降りて来たが、座席がなく床に寝かされた乳幼児たちの行方は分からなかった。

赤ちゃんの泣く声を聞いた乗客の一人が1人の赤ちゃんを救出しましたが、111人の犠牲者のうち11人は子どもでした。

ユナイテッド航空232便不時着事故の原因は?

事故調査の結果、エンジン停止時にファンディスクが分解されたことが判明した。1973年に納入されたユナイテッド航空232便の機体は、事故当時、16,997回、43,403時間の飛行時間を記録していた。

第2エンジンのタービンブレードが破砕して吹き飛び、機体構造部分を貫通。その結果、油圧系統はすべてロストしていたのです。

第2エンジンの近くで油圧ラインが切断されたことにより油圧が不足し、アプローチ時の機体の制御性が乗員から奪われたのである。

墜落から3ヶ月後にトウモロコシ畑で発見されたエンジンのステージ1ファンディスクのシャフト付近に、これまで発見されなかった疲労亀裂があったことがエンジンが故障した原因とされました。

ディスクのチタンに不純物が含まれており、それが疲労亀裂の原因となった。

ディスクの定期検査では亀裂は見逃されていた。人的要因の考慮が不十分だったため検査で見逃されたと結論された。

再発を懸念して、使用中のゼネラル・エレクトリック社製CF6エンジンのステージ1ファン・ディスクの多くが検査されました。

少なくとも他の2つのファンディスクにも同様の欠陥があることが判明しました。

ユナイテッド航空232便の事故後、尾部で3本の油圧ラインがすべて破損した場合にも操縦性を確保できるよう、すべてのDC-10機の2番エンジンの下にある3番油圧システムに油圧ヒューズが設置されました。

この事故が起こる前の数年間、旅客機のフライトコントロールが完全に失われた状態では生存者はゼロで、
国家運輸安全委員会(NTSB)では、ユナイテッド航空232便の着陸成功は事実上不可能であると結論づけました。

ユナイテッド航空232便不時着事故のその後

事故機の状況は、さらに多くの犠牲者が出てもおかしくなかったため、184人が生還できたことは航空界を驚かせ、事故調査報告書は「あのような状況下でUALの乗員が示した能力は、高く称賛に値し、論理的予想をはるかに超える」とクルー・リソース・マネジメントの成功例として知られることとなった。

■クルーリソースとは
安全な運航のために利用可能な全てのリソース(人的資源や情報など)を有効活用するという考え方

コックピット内の上下関係によらず、機長に対して自由に意見できる文化をはぐくむというもので、ユナイテッド航空では、事故が起きる10年近く前の1980年からクルー・リソース・マネジメントが訓練に取り入れられていた。

ユナイテッド航空232便ではデニス・フィッチが危機的状況の中でも時にジョークを交えコックピット内の良好な雰囲気作りに努めていたことが記録に残されています。

また、機長が速やかに、積極的に、そして適切にデニス・フィッチの申し入れを受け入れたこともユナイテッド航空232便を奇跡の生還へと導いています。

ユナイテッド航空232便不時着事故では、激しく損壊したコックピットは絶望視され、救援は後回しにされますが、奇跡的に乗員4人が救出され、航空会社でのキャリアを継続した。

ヘインズ機長が退職前の最後のフライトを行ったとき、彼はユナイテッド航空232便での管制塔の第一応答者と生存者数名と一緒にフライトしました。

デニス・フィッチは実は、ユナイテッド航空232便に搭乗する予定ではありませんでした。

5分前に出発する予定だった別の便の代わりにユナイテッド航空232便に乗るという運命のめぐりあわせがありました。

1990年代後半に最初の妻を脳腫瘍で亡くしたフィッチは、2000年3月にローザと出会い、彼はパイロット、彼女は客室乗務員として海外のフライトで働いていた。

現役引退後、脳腫瘍を患っていたフィッチは2012年にシカゴ郊外のセントチャールズにある自宅で亡くなりました。

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