「上を向いて歩こう」は 東日本大震災出の復興ソングとしても当時は頻繁に流れていましたが、もともとは戦後復興を支えた名曲の一つ。
作曲は中村八大、作詞は永六輔、歌手は坂本九という後に「六・八・九トリオ」とも呼ばれる3人が手掛けましたが、誕生秘話には永六輔さん中村メイコさんに失恋した時の心情を歌ったいう説があります。
上を向いて歩こう誕生のいきさつ
「上を向いて歩こう」は、渡辺プロを創設した渡辺晋に見出された作曲家”中村八大”が作曲し、当時放送作家であった中村八大の大学時代の後輩”永六輔”が作詞。マイクに向かって歌ったのは当時19歳の坂本九でした。
実は作詞に困っていた中村八大が有楽町の日劇前で偶然見かけた後輩の永六輔に「君は作詞ができるか」と声をかけたところ、永六輔が「できます」とウソをついたことから始まったいう話もあるようです。
「上を向いて歩こう」は坂本九のリサイタルで好評を博すと、評判を聞きつけたテレビのプロデューサーによって当時の大ヒットTV番組「夢であいましょう(NHK)」でも放送されます。
この時点ではまだレコードは発売されていなかったものの、当時新鋭のレコード会社「東芝レコード」がいち早く動いてレコード販売に取り掛かります。
「上を向いて歩こう」が誕生したのは昭和36(1961)年と言えば、まさに激動の時代。
ジョン・F・ケネディがアメリカ大統領に就任。東西ベルリンに壁が作られ、日本では岩戸景気に沸き、赤木圭一郎が死亡した年でもありました。
「上を向いて歩こう」はその後、アメリカのキャピトル・レコードから「SUKIYAKI」と改題されて発売さると、1963年5月11日付の『ビルボード』誌で全米チャートの79位に初登場。
五週間後の6月15日に、トップの座に輝くとそれから、3週間も首位の座をキープ。
「SUKIYAKI」こと「上を向いて歩こう」はこの年のアメリカでミリオン・セラーとなり、全米レコード協会(RIAA)からゴールド・ディスク賞を受賞すると、
ヨーロッパでもイギリス、ドイツ、スウェーデン、オランダなどでも発売される世界的ヒットを記録しています。
上を向いて歩こう誕生秘話!永六輔の中村メイコ失恋ソング?
「上を向いて歩こう」には実はいくつかの誕生秘話があります。
その一つが永六輔の中村メイコ失恋ソングというもの。
「上を向いて歩こう」の作詞を手掛けた永六輔さんは女優で歌手の中村メイコさんに惚れ込んでいたようです。
その中村メイコさんが神津善行さんと婚約したことを知り、ショックのあまり中村メイコさんの父親の前で泣いたそうです。
そのときに中村メイコさんの父親から「涙がこぼれないように、上を向いて帰るんですぞ」と慰められ、永六輔さんはその言葉を忘れないようにノートに記録。
※もしくは永六輔さんから「涙が出そうだよ」と聞かされた中村メイコさんが「そう・・涙が出そうなら 上を向いて歩けば 大丈夫よ」と返したという説もあります。
上を向いて歩こう誕生秘話!中村八大のアドリブ?
「上を向いて歩こう」を作曲した中村八大さんがあるとき、永六輔を招いてピアノを弾き始めると「今日は歩く歌を作りたい」と伝えます。
「ちょっとセンチメンタルな寂しい気持ちで歩きたい。だからそういう言葉を入れてくれ。」と以来を受けた永六輔さんが即興で作詞をしたという説もあります。
上を向いて歩こう誕生秘話!永六輔の学童疎開の悲哀?
日米安保闘争によるデモは過激化し東大女学生が死亡する中、永六輔は「デモも帰りに一人歩く虚しさのようなものを書いた」という説もあり、
「上を向いて歩こう」にはどうやら『男の子なら泣くのを我慢しろ』といったメッセージが込められている説もあります。
永六輔さんは学童疎開していた経験があり、ただでさえ寂しい思いをしていたところ、疎開者グループからは只一人、上田中学校の受験に合格し進学しています。
通学は宿舎から朝晩いつも独りぼっちで小諸駅まで歩き、小諸駅から信越線で上田駅まで乗車して上田中学校へ通う毎日は思春期の永六輔さんは相当にこたえたようです。
永六輔さんは子供のころから『男の子なら泣くのを我慢しろ』と言われたいたこともあり『泣きたい時も我慢して顔をゆがませている男の子をイメージして作詞した』と話していたという説もみられます。
実際に「上を向いて歩こう」の歌い方について、坂本九のリズムのある歌い方を気に入った中村八大さんに対して、永六輔さんさんは寂しさ、悲しさを切々と歌って欲しかったようです。
永六輔さん全く共感せず、坂本九の軽やかな歌い方や歌詞の発音が気に入らず、中村八大と激論を交わしたといわれ、結局、永六輔さんが折れて妥協したものの、3回も編曲し直すことになったといわれています。