山部善次郎さんは博多の爆発男 と呼ばれている福岡県出身の音楽家
紙問屋の家業を継ぎながらも、現在も音楽への情熱 を持ち続け、高圧電線感電事故 の後も精力的に活動を続ける山部善次郎さんの気になるプロフィールをまとめています。
山部善次郎wiki現在|6600ボルトに感電で仰天ニュース
山部善次郎さんは、14歳の時に6600ボルトの高圧電流に感電し、その事故により左目と鼻を失いました。 中学時代から音楽活動を始め、60歳を超えた現在でも博多のライブハウスを中心に精力的に活動しています。
そんな山部善次郎さんが「仰天ニュース」で紹介されました。
山部善次郎wiki現在プロフィール
名前:山部善次郎
出身地:福岡市博多区千代町
生年月日:1954年9月25日
年齢:70歳
小学校:福岡教育大学附属福岡小学校
出身中学:福岡市立警固中学校
出身高校:博多商業高等学校
山部善次郎の経歴
- 高校時代(1971年頃): ビートルズやモンキーズの影響を受け、高校在学中にバンドを結成します。博多の伝説的なライブハウス「照和」のオーディションを受け、「田舎者」というバンド名でステージに立ちました。
- 大学時代 – ザ・ドリル結成まで: 九州産業大学在学中は、「田舎者」に加え、「SMILE」、「博多テディボーイズ」 と複数のバンドで活動しました。
- ザ・ドリル時代(?1978年): その後、日本初のパンクバンドを自称する「THE DRILL」を結成。福岡大学での「山善石投げ事件」や、飯塚近畿大学での「ミイラ男事件」など、山部さんの奇行がエスカレートし、バンドは1年で解散。
- 山善&博多パラダイス時代(1978年): 「THE DRILL」解散後、「山善&博多パラダイス」というバンドで徳間ジャパンからアルバムリリースの話が持ち上がり、メジャーデビュー寸前までいきますが、録音の出来に納得いかず、この話を断ります。
- 音楽活動再開後(1984年?):
- 山善&Midnight Special: 1984年の音楽活動再開後、「山善&Midnight Special」として活動。メンバーは、山部さんの他に、坂東嘉秀さん(G)、石橋三喜彦さん(G)、穴井仁吉さん(B)、池畑潤二さん(D)。1985年には、インディーズで1stシングル「キャデラック」をリリース。
- 山善&DYNAMITE: 「山善&DYNAMITE」というバンド名でも活動し、1stアルバム「DANGER」をリリース。メンバーは、山部さんの他に、坂東嘉秀さん(G)、穴井仁吉さん(B)、角野一人さん(D)。
- 山善バンド: 1990年にキャプテンレコードからリリースされたアルバム「CRAZY TOWN」では、「山善バンド」として、サポートメンバーに石井啓介さん(Key.、元マグネットブラザーズ)、中野茂樹さん(Harp)を迎えてレコーディングしています。メンバーは、山部さんの他に、曽我浩三さん(G)、行徳伸彦さん(G)、正木和男さん(B)、上村司さん(D)。
- その他: 1988年には、THE MODSのアルバム「EASY COME EASY GO」にバックコーラスとハープで参加。
- 近年:近年は、ソロ活動の他、「YAMAZEN&Blues Fellows」(TAD三浦(G&Vo)、ナガサキスリム(Harp&Vo)、勝野真二(B)、JUSTINe 小川(D&Vo))、「YAMAZEN&BEGATTA」( 白井哲哉(B)、白井俊哉(G)、川嶋一秀(D))、 「山善&Midnight Special」としても活動しています。
山部さんは、様々なバンドで活動し、その都度メンバーを変えながら、自身の音楽性を追求してきました。 特に、福岡の音楽シーンを牽引してきたバンドメンバーとの交流は、山部さんの音楽活動において重要な部分を占めていると言えるでしょう。
山部善次郎のツイッターやインスタグラム
山部善次郎のツイッター
山部善次郎のインスタグラム
山部善次郎のフェイスブック
山部善次郎の高校や中学の学歴は?
山部善次郎さんは、福岡教育大学附属福岡小学校、福岡市立警固中学校を経て博多商業高等学校に進学しました。 中学3年生の時、卒業キャンプで好きな女の子にローリング・ストーンズの「テル・ミー」を歌おうと練習を始めたことがきっかけで音楽の道に入ることを決心しました。
高校時代には、ビートルズやモンキーズの影響を受けてバンドを結成しました。 博多の伝説的なライブハウス「照和」のオーディションを受け、バンド「田舎者」のメンバーとして「照和」のステージに立ちました。 その後、九州産業大学商学部経済学科に進学しました。 高校在学中の1970年には、高圧電線で6600ボルトに感電する事故に遭い、左目と鼻を失っています。
山部善次郎の大学の学歴は?
山部善次郎さんの学歴について、高校卒業後はどうやら大学には進学しているようです。
大学卒業後は、「ザ・ドリル」というバンドで活動した後、「山善&博多パラダイス」というバンドで徳間ジャパンからアルバムリリースの話が持ち上がり、メジャーデビュー寸前まで行きました。 しかし、録音の出来に納得できなかったため、この話を断っています。
23歳の時に「ザ・ドリル」を解散し、24歳で音楽の才能に見切りをつけ、家業の紙問屋を手伝うために愛媛県松山市に移住しました。
山部善次郎の結婚した嫁や子供は?
山部善次郎さんは結婚しているのでしょうか?それとも熱愛相手がいる?
山部善次郎さんのプライベートについてネットメディアやSNS(twitterなど)などへの投稿など調べられる範囲では結婚していることを確認できるような情報は掴めませんでした。
まとめ:山部善次郎wiki現在|6600ボルトに感電で仰天ニュース
■山部善次郎さんの生い立ちと音楽活動の開始
山部善次郎さんは、1954年9月25日、福岡県福岡市博多区千代町で、紙の卸問屋「有限会社紙ヤマベ(株式会社山部紙店)」を営む家に生まれました。 幼少期から洋楽に親しみ、福岡教育大学附属福岡小学校、福岡市立警固中学校を経て博多商業高等学校に進学しました。 中学3年生の頃、卒業キャンプで好きな女の子にローリング・ストーンズの「テル・ミー」を歌いたいと思い練習を始めたことがきっかけで、音楽の道を志すようになりました。 しかし、1970年、高校時代に高圧電線で6600ボルトに感電する事故に遭い、左目と鼻を失ってしまいます。 その後も音楽への情熱を失わず、高校在学中にビートルズやモンキーズの影響を受けてバンドを結成し、博多の老舗ライブハウス「照和」のオーディションを受けます。 見事合格し、「田舎者」というバンドで「照和」のステージに立ちました。 高校卒業後は九州産業大学商学部経済学科に進学し、21歳の時に現在の芸名である「山部善次郎」を名乗って音楽活動を本格化させます。
■バンド活動と音楽活動からの引退、そして復帰
大学卒業後は「ザ・ドリル」というバンドで活動し、1978年には「山善&博多パラダイス」というバンドで徳間ジャパンからアルバムリリースの話が持ち上がり、メジャーデビュー寸前までいきます。 しかし、録音の出来に納得できず、この話を断ってしまいます。 そして23歳の時に「ザ・ドリル」を解散し、24歳で音楽の才能に見切りをつけ、家業の紙問屋を手伝うために愛媛県松山市に移住しました。 松山市では製紙会社「オリエンタル製紙」で1年間修業した後、博多に戻り、家業を継ぎます。 紙の配達の仕事を4年間続けましたが、29歳の時に仕事で車を運転中にFMラジオから後輩のスマイリー原島さんが率いるTHE ACCIDENTSの「雨のメインストリート」を聴いたことがきっかけで音楽への情熱が再燃し、30歳で音楽活動を再開します。 そして、34歳の時に、メジャー1stアルバム「山善フォークジャンボリー」を日本コロムビアからリリースしました。
■音楽活動と並行して画家としても活動
山部さんは音楽活動の傍ら、39歳の時に油絵を描き始めます。 福岡県立美術館で個展を開催するなど精力的に活動し、福岡県展や朝日新聞賞に入賞するなど、画家としても高い評価を得ています。 2015年には博多阪急で12回目の個展を開催しました。
■山部さんの音楽活動の特徴と人柄
山部さんの音楽は、ブルースやロックンロールを基調とした力強いサウンドが特徴です。 その一方で、「山善フォークジャンボリー」のようなフォークアルバムもリリースしており、幅広い音楽性を持ち合わせています。 また、ライブパフォーマンスにも定評があり、「博多の爆発男」「ダイナマイト男」「和製ジョン・リー・フッカー」などの異名で呼ばれています。 2003年には、山部さんの半生がRKB毎日放送のドキュメンタリー番組「JNN九州・沖縄ドキュメント ムーブ」で取り上げられました。
山部さんは、音楽活動を通じて、多くの人に感動と元気を与え続けています。