山中湖連続殺人事件(澤地和夫)wiki|アンビリバボー

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元警察官・澤地和夫による「山中湖連続殺人事件」がアンビリバボーで紹介されました。

現役時代は同僚・部下から尊敬され慕われていた首謀者の元警察官・澤地和夫を殺人鬼へと変えたのは「お金」だったようです。

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山中湖連続殺人事件(澤地和夫)wiki|概要

山中湖連続殺人事件がおきたのは昭和59年10月11日。

犯人は東村山署の元警備係長で飲食店経営・澤地和夫(当時45歳)は知人の不動産業・猪熊武夫(当時35歳)と朴竜珠(当時48歳)の3人。

3人は貴金属商の太田三起男さん(当時36歳)を「厚木市の資産家を紹介する」と偽り山梨県山中湖村の別荘に誘い出し、殺害。

現金や貴金属類約6000万円を奪って死体を別荘の床下に埋めた。

そして2週間後の10月25日、今度は埼玉県上尾市の金融業・滝野光代さん(当時61歳)を「千葉県の土地を見に行こう」と言葉巧みに誘い出しロープで絞殺。

現金や通帳など約4700万円を強奪すると太田三起男さん同様、死体を山中湖の別荘の床下に埋めた。

事件が発覚したのは、滝野さんの家族からが埼玉県警上尾署に行方不明届を出したことから。

捜査を開始した結果、行方不明となった25日前後の状況から澤地が捜査線上に浮上し同年11月23日に澤地、猪熊、朴の3人を逮捕した。3人は犯行を素直に認めたが、その供述の中で更に他の不動産業者の殺害や、澤地と猪熊が口封じのため朴の殺害も計画していたことが判明した。

山中湖連続殺人事件(澤地和夫)wiki|詳細

澤地和夫は昭和33年4月に高校を卒業して警視庁警察官となった。間もなく、60年安保闘争や過激な学生運動で澤地は機動隊員として活躍。

同僚や部下思いの澤地は周囲から尊敬される理想の警察官だった。その後、東京都下の東村山署の警備係長となった。

昭和55年になって22年間務めた警察官を早期退職すると、家族の反対を押し切り、4000万円の融資を受けて西新宿の飲食街で大型居酒屋をオープン(同僚らが保証人になり金融機関から全てを借金で賄う)

当初は元同僚が来てくれたものの、だが、飲食代の殆どはツケだったため次第に運転資金が苦しくなってきた。

段々と閑散となり、元同僚から借金を重ねても赤字が続き、開店から3年後の昭和58年には借金が総額1億5000万円に膨れ上がります。

同年7月には割烹店は閉店。膨大な借金だけが残ったが保証人になってくれたり、マイホーム購入の資金を回してくれた警察仲間の中には、これが原因で担保の土地を差し押さえられたり、給料の差し押さえを受けて家庭崩壊した同僚もいた。

かといって、破産宣告をすると取り立てが保証人にまで行ってしまうことから破産宣告をする事が出来ず。

彼らに、借金の返済をしたいと1983年に津田沼でリサーチ会社を開くが売上はほとんどなく、借金返済の取り立ては一層厳しくなる一方。

そこで、猪熊、朴らに犯行計画を持ちかけて手を組んだのだった。

昭和62年10月30日東京地裁は澤地、猪熊に死刑、朴には無期懲役を言い渡した(朴は控訴せず、無期懲役が確定)。平成元年3月31日東京高裁は澤地、猪熊の控訴を棄却。2人は上告したが、平成5年7月5日澤地は突然上告を取り下げて死刑が確定した(猪熊は平成7年7月3日最高裁で上告棄却で死刑が確定した)。

澤地は公判中、東京拘置所から「わが遺言」と題して15通の批評を週刊誌「アサヒ芸能」に連載した。この中で、死刑廃止のための抗議として上告を取り下げたことや、死刑確定から執行までの執行順序の基準を明確に示せなど様々な批評を行った。

だが、一説には澤地の上告取り下げの真の意図は「上告を破棄されて死刑が確定する場合と上告取り下げで確定する場合では、後者の方が死刑執行時期が遅くなるはずだ」という自分で見つけた法則に従って長生きするためだと言う噂が絶えない。

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