淀の鯉(安土饗応事件)で明智光秀が本能寺の変?大河ドラマどうする家康

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大河ドラマ「どうする家康」では明智光秀による織田信長の暗殺「本能寺の変」のきっかけが「安土饗応事件」にあったとする描写が見られました。

「安土饗応事件」では明智光秀が徳川家康に腐った魚(淀の鯉)を用意していたとされますが真相は?

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淀の鯉(安土饗応事件)とは?

安土饗応事件とは、戦国時代の武将である明智光秀が、徳川家康や穴山梅雪といった重要な人物の接待・饗応役を担当していたが、明智光秀の不手際により急に解任されたとされる出来事です。この出来事が、後に光秀の信長に対する謀反の背景に関連しているのでは?という見方がもあります。

光秀が解任されたとする史料には、『川角太閤記』という文書があります。この文書によると、徳川家康卿が駿河の国を訪れ、穴山殿(穴山梅雪)と共に京都へ上洛する際、明智日向守(光秀)は明智家の領地である駿河の国で家康卿を接待する役目を担っていました。しかし、饗応の際に用意された料理が風に乗って悪臭が発生し、家康卿が腹を立てて直ちに駅所(宿泊施設)を変更しました。これにより、明智光秀は怒りを買い、解任されたとされています。

淀の鯉(安土饗応事件)で明智光秀が本能寺の変?大河ドラマどうする家康

大河ドラマ「どうする家康」では明智光秀による織田信長の暗殺「本能寺の変」のきっかけが「安土饗応事件」にあったとする描写が見られますが、安土饗応事件が実際に起こったかどうかは定かではありません。

安土饗応事件が直接的に明智光秀による織田信長の暗殺につながったという証拠は、現在の歴史的な記録では見つかっていません。

安土饗応事件は、光秀が信長から饗応役を解任されるなどの不運な出来事があったものの、それが直接的に謀反に結びついたと断定することは難しいです。

「安土饗応」に関する逸話は後世の作り話と考えられる可能性があります。江戸時代初期の俗書である『川角太閤記』や『祖父物語』に記載された逸話は信用性に欠け、作り話として捉えるべきです。また、信長による光秀への暴力の記録も、宣教師ルイス・フロイスの著書『日本史』にあるものの、フロイスが暴行を「人々のうわさ」と表現していることから、実際に目撃した証拠ではなく、真相を確かめることは難しいとされています。

さらに、光秀以外の有力家臣たちに対する信長の暴力の記録が存在しないことからも、信長が激しい暴君だったという証拠が不足していることがわかります。そのため、安土饗応事件が光秀による信長の暗殺に直接的に結びついたという主張には、史料的な根拠が乏しいと言えるでしょう。

まとめ:淀の鯉(安土饗応事件)で明智光秀が本能寺の変?大河ドラマどうする家康

安土饗応事件とは、1576年(天正4年)6月、明智光秀が徳川家康と穴山梅雪の接待役を務め、失敗したことで解任された事件です。

この事件は、光秀が信長に恨みを抱き、本能寺の変を起こした原因のひとつとされています。

『川角太閤記』によると、家康と梅雪が安土城を訪れた際、光秀は魚が腐敗した宴席を用意したため、家康は怒って光秀を解任したそうです。

しかし、この事件が実際に起こったかどうかは定かではありません。『信長公記』には、光秀が饗応役を務めたことは記録されているものの、解任されたという記述はありません。

また、光秀が魚が腐敗した宴席を用意したという記述も、『川角太閤記』以外には見当たりません。

そのため、安土饗応事件は、後世に創作された物語である可能性が高いと考えられています。

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