源頼朝には子どもが何人いたのですか?
源頼朝・北条政子夫婦は一夫一妻制
跡継ぎになるような子はいなかった?
源頼朝の子供は何人?死因は暗殺?
鎌倉幕府2代征夷大将軍 源頼家
鎌倉幕府3代征夷大将軍 源実朝
源義高(木曾義仲嫡男)室 大姫
夭折 千鶴丸
大進局の子、仁和寺で仏門に入る 男子女子 乙姫
清和源氏頼光流多田氏族和賀氏和賀義治嗣子 和賀頼忠 落胤
薩摩島津家祖 島津忠久 落胤
大伴氏宗家祖 大友能直 落胤
など。
源頼朝・北条政子夫婦の間には男子二人、娘二人の計4人の子を政子との間にもうけています。
頼朝が次女に手を付け、産ませた子供など側室の子供はたくさんいたと思われます。
九州の島津氏や大友氏、少弐氏の祖は、頼朝の隠し子だという伝説があります。
頼朝は、まず、伊豆の豪族の娘(八重)との間に子をもうけたが、平家の勘気を恐れたその豪族が子を殺した。
その後、北条政子との結婚後にも、他の女性との間に子ができたが、政子が嫉妬心からその子を暗殺してしまった。頼朝は、有力な北条氏をバックに持つ政子には逆らえなかった。
政子との間には、頼朝の跡を継いた嫡男の頼家と次男の実朝をもうけた。女子は長女の大姫と次女の何とかと言う女をもうけた。
大姫も次女も結婚前に若死にした。
2代将軍頼家と3代将軍実朝の運命は、周知のとおり。
なお、頼家には、公暁と八幡という男子がいたが、公暁は実朝暗殺直後に北条氏に殺され、八幡もその後殺された。
他には子供はいない。
薩摩の島津氏の家祖は、頼朝の子となっているが、これは俗説といえる。
また、その前に頼朝の弟の範頼も頼朝と北条氏に殺されており、他の兄弟も死んでいるか、僧籍に入っており、源氏の直系は八幡の死により絶えた。
ちなみに、頼朝と兄弟関係にある人物は次のとおりです。
源義平
源朝長
源義経
源義圓
圓成
鎌田政治
源希義
源範頼
義門
阿野全成