NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に登場する源頼朝はなぜ「すけどの」と呼ばれるんでしょうか?
源頼朝はなぜ「すけどの」?鎌倉殿の13人NHK大河ドラマ
源頼朝は伊豆に流される前の官位が従五位下・右兵衛権佐(うひょうえごんのすけ)であったので、縮めて「佐殿(すけどの)」と流人時代は呼ばれていました。
頼朝は挙兵した後もなかなか自ら上洛する事がなかったので、位階は上がっていったものの、朝廷での官職には中々つけなかった。
平家滅亡後数年経った1189年にようやく上洛して権大納言と右近衛大将に任じられるも、この役職は京都にいないと勤まらない上に京都にいる事を義務付けられていたので、鎌倉に帰る直前に両方とも辞任してしまった。
こうした背景があったので、源頼朝は当時も後世も「佐殿」という通称で呼ばれる事が多い。
1192年になって後白河法皇が崩御すると、朝廷はかねてより頼朝の希望していた征夷大将軍をに任じた。
これは征夷大将軍が遠征将軍の役職であり、京都にいなくてもよく、しかも朝廷の許可無く色々出来る権限を持った役職であったからであった。
現在でも元総理なら総理とよび、当時なら元関白ならさきの関白と呼ぶ。
板東の田舎では中央官職はまずないから、憧れもあって記録したんでしょう。都なら何処の警察署の副部長の息子さん。べつに記録に残る役職ではありません。
源頼朝は後に鎌倉幕府を開くことになりますが、滅ぼされる運命をたどります。
本来、同じ御家人に過ぎない北条氏が、主君面して他の御家人達を支配し、諸国の守護を独占するようになったからでしょう
さらには北条の家臣に過ぎない内管領長崎氏にすら平伏しなければならない状況になっていたのです
教科書でいう、元寇の影響が幕府滅亡に直結したとは言えない部分もあるかなと思います。何せ、元寇から半世紀以上あとに滅亡ですからね。
北条の勢力が増すほど幕府は揺らいでいったという皮肉な結果です
承久の乱では北条はあくまでも、同じ御家人の立場で、リーダーとして彼らをまとたから支持を得られたのです
足利などの源氏の名家はもちろん、板東八平氏系でも「本当は北条より俺たちの方が名門」という自負があったでしょう
末期の時点では北条一門と縁者を除けば、北条を快く思う御家人などほとんどなく、単に敵わないから従っていた状態だったのではないでしょうか?
少なくとも北条と心中する義理など感じていなかったから、北条が不利になった途端、雪崩をうって討幕側に走ったのです
関東では分倍河原の戦いで、新田軍は一度は大敗したにもか拘わらず、幕府側から離反して新田勢に味方する御家人が相次ぎました
恐らくは六波羅探題の陥落の情報が届いたためでしょうが、北条の求心力は墜ちていたわけです