映画「八日目の蝉」の原作は小説でドラマ化・映画化もされました。
原作と映画には違いがあると言われていますが、何が違うんでしょうか?最後は再会する?しない?
■八日目の蝉あらすじ
あらすじ
今日まで母親だと思っていた人は、自分を誘拐した犯人だった。21年前に起こったある誘拐事件―。不実な男を愛し、子を宿すが、母となることが叶わない絶望の中で、男と妻の間に生まれた赤ん坊を連れ去った女、野々宮希和子と、その誘拐犯に愛情一杯に4年間育てられた女、秋山恵理菜。実の両親の元に戻っても、「ふつう」の生活は望めず、心を閉ざしたまま成長した恵理菜は、ある日自分が妊娠していることに気づく。相手は、希和子と同じ、家庭を持つ男だった。封印していた過去と向き合い、かつて希和子と暮らした小豆島へと向かった恵理菜が見つけた衝撃の真実。そして、恵理菜の下した決断とは・・・?
八日目の蝉の原作と映画の違いは?最後は再会?
「八日目の蝉」の原作者である角田光代さんによれば、この作品は母性、家族についてがテーマだそうです。
インタビューでこの作品を執筆した理由は、その当時、ある大臣が「女は子供を産む機械」と発言したことや、児童虐待が社会問題化したことからの怒りからだそうです。
「八日目の蝉」の原作と映画では細かい違いはたくさんあります。
最初の逃亡先の、とみ子さんとの暮らし・久美と子供の再会シーンなどが大幅カットされていますが、最も違うのは最後のシーン。
原作のラストは、出所した希和子は恵理菜(薫)とフェリー乗り場ですれ違いますが、映画では恵理菜(薫)と千草が、自分達の過去を知る為の旅行をし、エンゼルホームに行き、その後、岡山から小豆島に行くフェリーに乗船するシーンで終わっています。
映画・ドラマとも恵理菜(薫)と希和子が写真館で記念写真を撮り、出来上がった写真を見ますが、原作では記念写真は撮りますが、出来上がった写真を見るシーンは、ありません。
映画では恵理菜(薫)は希和子との記念写真を撮っていた事を思い出し、小豆島の写真館に入り、印画紙から2人の映像が浮かび上がってくると同時に、自分の小豆島での過去を思い出します。
そして、希和子が薫に最後に言った言葉で、「その子はまだごはんを食べていません!」と言い放った事を思い出します。
自分が捕まり最後かもしれないと言うのに子供の心配をしたバカなこの女も、本当の親だと再会させられて見知らぬ女に抱きかかえられた時、お漏らしをしてしまい突き放され女も又、母親だったと理解して自分の過去の封印をとき、自分の生まれてくる子にも愛情をそそぎたいと願う感動的なシーンとなりました。
また映画の演出で、エンゼルホームを逃走する際、薫を抱いた夜道を歩くシーンで希和子が、「見上げてごらん夜の星を」を子守唄として歌ってやります。
やがて薫が元親に帰され、母親は一生懸命に愛情をそそごうとするシーンの中で、恵理菜をベッドに寝かせながら絵本を読み終えて、恵理菜はお星し様の歌ってとせがみ、母親は自分の知っている子供向けの星の歌を歌ってやるのですが、恵理菜に「そうじゃなくって」と、拒否されてしまいます。
母親が「そうね~」と、むくっと立ち上がり、「何故なの?」と泣きわめき発狂しだし、恵理菜はベッドから起き上がり必死で、「おかあさんごめんなさい。」と泣きじゃくり謝るシーンはとても心が痛みました。
その事で恵理菜は心を閉ざしてしまったと物語っています。
小豆島で夏祭りのシーンは原作では、豊作を願う神事で、薫が火を怖がり泣きじゃくるので貴和子がそっと
寄り添い、薫の顔と同じ視線で大丈夫だからと手を添えて、火のついた竹竿を持って歩きます。
その時に写真に撮られるのですが、希和子は心の中で大丈夫、ただの家族写真だと自分に言い聞かせて歩いていきます。