映画「八日目の蝉」冒頭の裁判のシーンで、子供(薫、本名は恵理菜)を誘拐していた野々宮希和子が
「お詫びの言葉はありません」
と言いましたが どう解釈するのが妥当ですか?
八日目の蝉で希和子の「お詫びの言葉はありません」解釈は?
映画「八日目の蝉」前半の裁判所でのシーンのセリフで子供(薫、本名は恵理菜)を誘拐していた宮希和子
「お詫びの言葉もありません」
と言いますが、この時の、希和子には少なくとも【謝罪の念】はなかったでしょう。
裁判官:「具体的に謝罪したいことはありますか?」
希和子:「自分の愚かな行動を後悔するとともに、子育ての喜びを味わわせてもらった秋山さんに感謝したい」
裁判官:「感謝ではなく謝罪では?」
希和子:「本当に申し訳ないことをして・・・お詫びの言葉もありません」
というやりとりが、ありますが、この時の希和子の表情からは、感情を汲み取れません。
「あなたたち夫婦に取って決してよいことをしたとは思っていない。きっと悪いことをしたと思う。でも本心からそうは思えない。だから、詫びの言葉はない、出てこない。出てくるのは、子育てさせてもらった感謝の気持ちだけ」
という感じでしょう。
希和子の中で、恵津子に堕胎をなじられ『からっぽのがらんどう』だと言われたことは、深い傷となっています。
そしてまた、自分を罵り、取り乱しまくっている、恵津子を横目に、まさに『からっぽ』の状態(心からの謝罪の気持ちはなく)で裁判に臨む、希和子の姿も、この映画の見どころの1つだったように思います
蝉は七日で死ぬのが“普通”。八日目まで生きている蝉は、だから“普通ではない”のです。マロンちゃん(小池栄子)が言いますよね。「私は思う。どうして“普通に”育ててもらえなかったのか、って」
普通の家庭で普通に育てられなかった(幸せではなかった)マロンは“普通ではありません”。ゆえに彼女もまた“八日目の蝉”です。(別に彼女が死に損なった人間という意味ではなく)
不倫、堕胎、あげくに誘拐罪を犯したキワコも“普通ではありません”。
普通に子育てできず、帰ってきた実の子供に愛されなかった父母も“普通ではないのです”。
エンジェルホームの女性たちもそうです。
でも、そんな普通でない人々(=八日目の蝉)も、とりあえず生きていれば、な・に・か、いいことはあるだろう、というメッセージが、このタイトルに込められたとみます。あなたの解釈“も”、当然正解ですが、このようにもっと広げて考えるのもまた正解の一つだと思います。