残間里江子さんは山口百恵さんの自叙伝『蒼い時』をプロデュースしたことで注目を浴びたプロデューサー。
「愛・地球博」の誘致総合プロデューサーや「ユニバーサル技能五輪国際大会」総合プロデューサーも務めた残間里江子さんの気になるプロフィールをまとめています。
残間里江子wikiプロフィール
名前:残間里江子
出身地:宮城県仙台市生まれ
生年月日:1950年3月21日
年齢:72歳
出身大学:明治大学短期大学法律科
残間里江子の高校や大学、中学の学歴は?
中学1年生の時から静岡県富士市で育つ残間里江子さんの通っていた高校については女子高だったようなのですが学校名は不明です。
少なくとも現在静岡県富士市に女子高は存在しないようです。
出身大学は明治大学短期大学ですが4年制の大学へ行きたかったものの経済的に断念したとのこと。
残間里江子の病気は?
生後間もなくから病気がちで、まず分娩時に鉗子分娩の鉗子が視神経を傷めてしまい、左目はほとんど見えなく舞ってしまったんだとか。
学枚に上がる前は百日ぜきから小児ぜんそく、赤痢、9歳で小児性関節リウマチ炎から心臓弁膜症などを患い中学時代は年間100日も学校を休んでいたほど。
その後も胆嚢炎や十二指腸潰瘍、胃潰瘍に罹り、今でもびらん性慢性胃炎は持痛
あまりみんながかからない皮膚病のジベルばら色粃糠疹(ひこうしん虫垂炎と声帯ポリープと腱鞘(けんしょう)炎
手術経験は、半月板の他に虫垂炎と声帯ポリープと腱鞘炎
40代半ばになると無痛性甲状腺炎と手指の関節に激痛が走るブシャール結節とへバーデン結節になり、一時は左右10本の指関節に死ぬほど痛い注射を打っていたそうです。
さらに慢性気管支ぜんそく
頸(けい)動脈狭窄(きょうさく)
狭心症
半年前から右膝の半月板損傷
背骨の棘突起(きょくとっき)過敏症 などと診断され、以来横向きで寝ているんだとか。
残間里江子の経歴
大学卒業後の1970年、静岡放送にアナウンサーとして入社。
静岡放送の入社試験を受ける際、エントリーシートに「会長が知人」と書いたことから、面接で「この(面接官の)中にあなたの知人の会長はいますか?」と訊かれ、咄嗟に「この中にはいらっしゃらないと思います」と答えたところ、面接官の一人から「私が会長です」と言われたことがあった
1972年 約2年半勤務した静岡放送を退社、東京に出て商店街のアナウンスのアルバイトなどをしながら「1日に最低10人は新しい人に会う」という目標を立てて再就職活動を行う
静岡放送のアナウンサー時代、ラジオの『歌のない歌謡曲』のパーソナリティを担当していたことがあったが、ちょうど生放送だったある日の放送でレコードのプレイヤーが回らず、手でプレイヤーを回していたが、段々手が疲れてレコードの音もおかしくなってきたことで「もう番組終わりだ」と思ったということがあった
1973年6月 雑誌「女性自身」の関係者に会ったことがきっかけで、光文社に入社し、女性自身編集部記者として勤務した[4]。
1980年 企画制作会社「キャンディッド」(現「キャンディッド・コミュニケーションズ」)を設立し、代表取締役社長となった。
1980年9月 山口百恵の『蒼い時』をプロデュースし、広く名を知られる。
1983年、平凡社から創刊された雑誌「Free」の編集長に就任。
2001年1月 財務省「財政制度等審議会」委員を担当した。
2001年2月 国土交通省「社会資本整備審議会」委員担当した。
2002年12月 「キャンディッド・コミュニケーションズ」代表取締役会長に就任する。
2004年3月 厚生労働省「2007年ユニバーサル技能五輪国際大会」総合プロデューサーを担当した。
2005年7月 クリエイティブ・シニア(現「キャンディッド・プロデュース」)設立、代表取締役社長に就任する。
2009年1月 大人のネットワーク「club willbe」を創設し、代表に就任する。
2009年8月 法務省「裁判員制度に関する検討会」委員に就任する。
2010年3月 藤田観光社外取締役に就任する