残間里江子さんは山口百恵さんの自叙伝『蒼い時』をプロデュースしたことで注目を浴びたプロデューサー。
「愛・地球博」の誘致総合プロデューサーや「ユニバーサル技能五輪国際大会」総合プロデューサーも務めた残間里江子さんの気になるプロフィールをまとめています。
残間里江子wikiプロフィール
名前:残間里江子
出身地:宮城県仙台市生まれ
生年月日:1950年3月21日
年齢:72歳
出身大学:明治大学短期大学法律科
残間里江子の息子や夫(元旦那)は?
残間里江子さんは26歳のときに結婚したが離婚していいるシングルマザー
旦那さんは大学時代の部活仲間だったそうです。
離婚の原因は旦那(夫)の浮気だったようですが、旦那方は離婚する意思がなかったようで、離婚調停の末に全財産を慰謝料として払うことで決着したんだそうです。
残間里江子さんには息子が一人いますが、実は元旦那との別居期間中にお付き合いしていた男性との間に授かった子供のようです。
ただ、その男性とは結婚するつもりはなかったそうで、残間里江子さんには未婚の母を貫いています。
残間里江子さんの子供は、直巳さんという男性です。
光文社監査役を務めていたことが分かっています。
残間里江子の父親は?
残間里江子さんの母親の名前は残間富枝(ざんまとみえ)さん
旧国鉄の職員で労働組合の仙台鉄道管理局・婦人部長をしていましたが、父親は青年部長を務めていた男性です。
ただ、赤狩りと呼ばれる共産主義者の追放によって両親ともに旧国鉄を退職させられると、父親の事業もうまくいかず、小学校のころは、その日に食べるお米にも困るほど。
当時は父は土木技術者として東北各地に出稼ぎに行き、母は保険の外交をしながら市民運動をしていたそうです。
残間里江子さんの母様は老衰のため99歳で2015年に亡くなっています。
ダンボール350箱分の原稿や大切にしていた文学全集などがあり、その片付けに半年ほどかかったそう。シュレッダーを3つ壊したとか。
父はその前に亡くなっているそうです。生前は胃がんを患っていたとのこと。
カメラ愛好家だった父が残した写真は段ボールに 7 箱にもあり処分には苦労したそうです。
残間里江子の経歴
大学卒業後の1970年、静岡放送にアナウンサーとして入社。
静岡放送の入社試験を受ける際、エントリーシートに「会長が知人」と書いたことから、面接で「この(面接官の)中にあなたの知人の会長はいますか?」と訊かれ、咄嗟に「この中にはいらっしゃらないと思います」と答えたところ、面接官の一人から「私が会長です」と言われたことがあった
1972年 約2年半勤務した静岡放送を退社、東京に出て商店街のアナウンスのアルバイトなどをしながら「1日に最低10人は新しい人に会う」という目標を立てて再就職活動を行う
静岡放送のアナウンサー時代、ラジオの『歌のない歌謡曲』のパーソナリティを担当していたことがあったが、ちょうど生放送だったある日の放送でレコードのプレイヤーが回らず、手でプレイヤーを回していたが、段々手が疲れてレコードの音もおかしくなってきたことで「もう番組終わりだ」と思ったということがあった
1973年6月 雑誌「女性自身」の関係者に会ったことがきっかけで、光文社に入社し、女性自身編集部記者として勤務した[4]。
1980年 企画制作会社「キャンディッド」(現「キャンディッド・コミュニケーションズ」)を設立し、代表取締役社長となった。
1980年9月 山口百恵の『蒼い時』をプロデュースし、広く名を知られる。
1983年、平凡社から創刊された雑誌「Free」の編集長に就任。
2001年1月 財務省「財政制度等審議会」委員を担当した。
2001年2月 国土交通省「社会資本整備審議会」委員担当した。
2002年12月 「キャンディッド・コミュニケーションズ」代表取締役会長に就任する。
2004年3月 厚生労働省「2007年ユニバーサル技能五輪国際大会」総合プロデューサーを担当した。
2005年7月 クリエイティブ・シニア(現「キャンディッド・プロデュース」)設立、代表取締役社長に就任する。
2009年1月 大人のネットワーク「club willbe」を創設し、代表に就任する。
2009年8月 法務省「裁判員制度に関する検討会」委員に就任する。
2010年3月 藤田観光社外取締役に就任する